四話
カーテンの隙間から注ぐ陽の光に照らされて目を覚ますと、目覚ましの鳴るちょうど五分前だった。
僕は目覚ましのアラームを解除し、大きく伸びをした。
横に並んで寝ていたはずの妻の姿はなかったが、キッチンから物音が聞こえるので、朝食の支度でもしているのだろう。
すると、「あなた、そろそろ起きる時間よ」という声が聞こえた。
妻は決まって目覚ましのなる時間に僕を起こす。
結婚当初からの事で、僕は何度か「目覚ましをかけているから、わざわざ起こさなくていいよ」と言ったことがあったが、それでも止めることは無く、一日も欠かしたことがない。
「うん。起きてるよ」僕は妻にそう声をかけた。
「あら、おはよ。もう起きてたの?」
「うん、おはよ。今起きたとこだよ」
「ご飯出来てるわよ」
「今行くよ」
僕はそう言ってベッドから出ると、寝巻きのままリビングへと向かった。
テーブルには二人分の炊き立ての白米、味噌汁、目玉焼き、焼き鮭、牛乳が並んでいた。
ここにいずれ、もう一人分の食事が並ぶことになるのだ。
僕と妻との間に子供はいない。いや、いなかったと言った方が正確かもしれない。
結婚してもう二年になるが、僕も妻も子供が欲しいとは思っていなかった。少なくとも僕はそう認識していた。しかし妻は妊娠した。そしてそれを嬉しそうに僕に報告してきた。
僕の認識が間違っていたということだろうか。それとも、妊娠によって考え方が変わったということだろうか。
おそらく両方なんだろうな、と僕は思った。
朝食を食べ終え、食器を流しに運ぶ。キッチンに置いてあった、妻の用意した弁当を鞄に詰め、玄関を出た。
「あなた、いってらっしゃい」
笑顔で見送る妻に、何をそんなに笑うことがあるのだろうかと、少し苛立ってしまった。僕は公園にある変な遊具くらい、性格がずいぶんねじ曲がった人間なのだ。
僕はその次の週、またしても半休を取得し、午前中で仕事を切り上げ図書館へ向かった。
何としてでも本を借りてやろうと、決意を胸に込めていた。
しかし、前回と同じくエントランスにいた三毛猫に睨まれ、図書館の中に入ると、受付には例の若い女性司書が座っているのが目に入り、その決意は幾分小さくしぼんでしまった。
彼女は前回と全く同じ姿勢で、同じ表情で、同じところを見つめているように見えた。僕は彼女のことをロボットか、彼女だけ時間という概念から外れた存在だと言われても、信じたかもしれない。それほどまで完璧に、前回見たときと、まったく同じだった。
入って来た僕に彼女が気付き、こちらを見るのが分かった。
他に人が受付に誰もいないのを確認すると、僕は一直線に彼女の方へ向かった。
「また来たのね?」
近づいてきた僕に、彼女が先に口を開いた。
「うん。今日こそは本を借りて帰るからね」
「無駄だと思うけど」
「それはどうだろう」
僕は彼女の言葉を受け流し、さっそく本を選ぶためその場を離れた。
前回はあまりに選びに選び抜いたものだったのがいけなかったのかもしれないと思い、今回は目に付いたものを、片っ端から棚から抜き出していった。
ミステリー、エッセイ、経済誌、哲学書……
十分ほどで、僕の両手には本が高く積みあがった。
首を真っ直ぐにしていると、本で視界が塞がれてしまうため、蟹のように横歩きになりながら受付へ向かった。
僕は受付にドサッと本を置くと、そのうず高く積まれた本を見て、彼女の無表情が少し不機嫌そうに歪んだ気がした。
彼女は無言のまま、僕の選んだ本を上から順番に、前回と同じようにじっくりと見ていった。
彼女の目は真剣そのもので、そうしているときの彼女は、外界から遮断されているようにそのことだけに集中しているようだった。
彼女の作業は時間を要した。
何人か僕の後ろに人が並んだが、全員が全員同じように、なかなか順番が回ってこないことに舌打ちし、別の受付へ並びなおしていた。
十五分ぐらいかかって彼女はその作業を終わらせると、ゆっくりと顔を上げて言った。
「ダメね」
彼女は一冊の本を手に取り、僕に見せつけるようにした。
「なるほど」
始めに本を借りていくと宣言こそしたが、半ば予想した通りの展開ではあった。
「またこれを借りると不幸になるって言うのかい?」
「いいえ。これはそれとはまた違ったものよ。まぁ、あまり良くないことが起きるって意味で
は、そう相違ないのかもしれないけれど」
「なるほど」
何がなるほどなのか、とりあえず彼女の言った言葉を一旦受け入れてみることにした。そして確認するように問う。
「僕にその本は貸せない」
「そうあなたにこの本は貸せない」
彼女も念を押すように言う。
「もし僕がこの本を読まないとしても?」
「ええ、一度も読まないとしても」
端的に、簡潔に、機械的に。
どうすべきか考えあぐねていると、彼女は「どうやらあなたには本を選ぶセンスがあまりないようね」と僕に言った。
本を選ぶセンスというものが、どういったものなのか良く分からなかったが、僕は少なからず彼女のその発言に傷付いた。人間誰しも、センスがないと言われて喜ぶ人はあまりいないだろう。
ただ、とりあえず「そうかもしれない」と僕は頷いた。
しかしすぐに、「でも今日は適当に目に付いたものを選んだんだ」と訂正した。
それに対して彼女は「たとえ適当に選んだのだとしても、それらの本は選ばれるべくして選ばれたのよ。全ての本にあなたの手に取られた意味が必ず存在するの」と言われてしまった。
「だったら君が僕に合う本を選んでくれない?」少し苛立ったように聞こえたかもしれない。あるいはひどく落ち込んで救いを求めるように聞こえたかもしれない。
どちらであったにせよ、その言葉は僕の本心だった。いや、今までの発言が別に本心じゃないとは言っていないけれど。
そんな僕の言葉に「それはダメよ」と、彼女は一蹴する。間髪入れずに。
「どうして?」
「私はここから離れることが出来ないから」
確かに彼女は今職務中だ。しかしだからと言って、図書館の職員は来館者に本の場所を尋ねられたりした場合、案内するのが普通ではないのか。
僕はそう思ったが、口に出すことはせず、「じゃあお勧めの本の名前を言ってくれればいいよ。そしたらそれを自分で探すから」と僕は言った。
僕にセンスがないと言った彼女が、どんな本を勧めるのか、純粋に興味があった。しかし彼女はそれに対しても「そういうことも出来ないのよ」と言った。
僕は本格的に腹が立ち始めていた。苛立ちを隠そうともせず、「じゃあ何だったら出来るって言うんだい?」と怒気を込めて言った。
「私たち図書館の職員はどの本に対しても平等でなくてはならない。その中で優劣をつけることなんて許されていないのよ。あなたの言うお勧めという観念さえ持つことは出来ないの。それが司書の務めであり、条件でもあるの」
上辺だけすくえば最もらしいことを言っているように聞こえるが、全ては詭弁だ。彼女は僕に意地悪をしている。どうしても僕に本を貸したくないらしい。そうとしか考えられない。理由は全く分からないけれど。
「あなたは何か勘違いしているわ」
僕の心を読んだかのような言葉。それとも今考えていたことを口に出していただろうか。
「僕が何を勘違いしているって言うんだい?」
「そうね、本来ならば教えられない内容なんだけれど……」彼女は少し眉間に皺を寄せ、思案する様子を見せた。これで彼女がロボットではないということが証明された。いや、ロボットでもそれくらい出来る性能のものがあるか……
そんなことが僕の頭の中に泡のように浮かんできては消え、とにかく、初めて見る彼女の無表情以外の姿に少しドキッとしてしまい、その後の話を僕は上手く聞き取ることが出来なかった。
「……いいわ。特別に教えてあげる。簡単に言えば資格。あなたには資格がない……聞いてる?」
「え?あ、えっと……なんだっけ?」
「あきれた」そう言った彼女は本当に呆れたという表情をしていたが、次の瞬間にはまた元の無表情に戻っていた。
僕の胸の動悸はすぐには収まらなかった。それどころか、心臓が今にも飛び出しそうなくらい大きく脈打っていた。
落ち着け、落ち着けと思うほど、その鼓動は大きくなっていった。まるで、体の中で誰かがドラムを打ち鳴らしているようだった。曲調はロック。もしかしたら彼女にもこの音が聞こえているかもしれない。
「……今日は……帰るよ」
上手く空気を吸うことが出来なかったが、何とか僕はそう言うことができた。そして一言言葉を発した後は、それで少しは落ち着いたのだろう、自然と言葉が流れていった。
「それで寝る前にでも君の言う本を選ぶセンスというものについて考えてみるよ。そしたら次来るときには少しはましになっているかもしれない」
そう言って僕は階段の方へ歩き出した。またしても何冊もの本が、カウンターに積まれたままとなった。
階段へ差し掛かり一段目に足をかけたそのとき、「ちょっと待って!」と、僕の背中に大きな声がかけられ足を止めた。
しかし正確に言うならば、僕の両耳は大きな声を聞き取った、と表現する方が良いかもしれない。そのとき僕は、それが自分にかけられた言葉だとは思っていなかったからだ。
それは彼女の声だったのだが、彼女が大きな声を出すというイメージが頭の中で結びつかず、脳が認識し理解するのに時間がかかってしまった。その結果、僕はそのままの姿勢で数秒硬直することになった。
時間をかけてゆっくりと振り返ると、ただでさえ彼女の大声に驚いていたところに、更に僕は衝撃を受けることとなった。
それは、大袈裟な言い方では無く、世紀の出来事のように感じた。彼女が椅子から立ち上がるのを目撃したからだ。
まだ彼女に会ったのは二回目にも関わらず、ほとんど、というか全く彼女に関して知っていることなんてないはずなのに、初めて見聞きすることがたくさんあって当然なはずなのに、僕にはそれが、違和感となって襲ってくる。
思い込み。
固定観念。
偏見。
そう言ってしまえばそれまでだが、それだけ一度目の印象が強かったということなのだろう。心理学では確か、そういったことを初頭効果と呼んだのではなかったか。
全く関係のない話だが、僕は大学時代心理学を専攻していた。恥ずかしながら全く真面目に講義を聞いてはいなかったし、卒業してから大分時間も経っているので、ほとんどのことが頭からすっぽり抜け落ちている状態だったけれど。
二本の足で立った彼女のシルエットは細身で、女性にしては幾分高い身長だった。たぶん僕と数センチも変わらないだろう。その体を支えている長い足は、ピッタリとしたジーンズに覆われていた。
彼女はどんな足をしているのだろう?
筋肉の付き方はどんな感じなのだろう?
顔と同じような、真っ白な肌なのだろうか?
なぜこんな想像を……?
と思ったとき、急に体が浮遊する感覚に襲われた。眩暈かと思ったが、すぐに視線が天井を向いていることに気づき、ああ、足を踏み外してこれから階段から落ちるのか、と冷静に分析していた。
時間が引き延ばされたように、意識だけはゆっくり物事を捉えていた。なんなら、天井に埋め込まれているダウンライトの数を、見える範囲で数えていたくらいだ。
七つ。素数だ。
「だから何だ?」と言われたら、「さあ?何でもない」と答えるしかない。
しかしその後、僕が階段から落下することはなかった。
左の手首が強く掴まれる感覚があり、そのまま引っ張られた。次の瞬間目に入ったのは彼女の顔だった。ものすごく近くにあった。十数センチ……いや、数センチ程度だったかもしれない。
僕は彼女に助けられたのだと瞬時に理解したが、それと同時に、少し後ろめたい気持ちになった。彼女の足のことを想像していた矢先の出来事だったからだ。
しかしいつの間にあの距離を移動したのだろう?
僕はとりあえず彼女にお礼を言うべきだと思ったが、僕が何か発するより先に彼女が話し始めた。
「あなたは何度来ても同じかもしれない」
切羽詰ったような声色だった。それはそうだろう、階段から人が落ちるところだったのだ。運が悪ければ死んでいてもおかしくはない。それを目の当たりにするかもしれなかったのだ。
ただ、そのことには全く触れなかった。何もなかったかのように、今の一連の出来事が、僕の錯覚だとでも言うように。
「これを持って行って」
僕は彼女から差し出された一冊の本を受け取った。
料理のレシピ本だった。表紙には濃厚なミートソースのかかったパスタが載せられており、とても美味しそうだった。そういえば、昼食を食べずにここへ来たことを思い出し、急に空腹感に襲われた。空耳かもしれないが、腹の虫が鳴った音も聞こえた気がした。
「これが何だっていうんだい?」問いながらも本を開こうとすると、彼女は僕の手を押さえ「今はダメ。家に着くまでは絶対に開かないで」と言った。
何が何だか分からなかったが、言うとおりにした方が良さそうだった。それほどまでに彼女の表情は真剣だった。何にせよ、家に帰って読んでみたら分かることだ。
彼女はそれ以上何も言うことは無いようだった。
またいつもの無表情に戻り、ただそこに佇んでいる。まるで床に根を張って生えている植物のように微動だにせず。
僕はふと違和感を覚え周囲を見回した。
僕らの周りに、人が誰もいなくなっていた。
少なくとも僕が受付から離れたときには、フロアには幾人か存在していたように思う。それが全ていなくなっていた。僕の視界に入る場所より奥まったところに、全員が全員移動してしまったというだけのことだろうか?
しかし、彼女は大声を出していたりした。受付からここまで走ったりもしただろう。少なくとも注目を浴びそうなものだと思うのだが……
その違和感に明確な答えが出る訳はなく、僕は彼女から受け取ったレシピ本を大事に抱え図書館を後にするのだった。
帰り道、あの図書館はなんだか不思議なことばかり起こる気がする……なんてぼんやりと考えていた。
しかし、本当に不思議な出来事は、これから待ち受けているのだった。