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二話




子供が出来たと告げられた翌日、僕はいつも通りの時間に起き、いつも通りの電車に乗り、いつも通りの仕事をこなした。そして妻に今日も残業で遅くなる、と嘘をついた。


その日は半休を取得し、午前中で仕事を切り上げ最寄りの駅から自宅方面への電車に乗った。まだ十二時を過ぎたばかりという時刻にも関わらず、なぜか車内は満員だった。


一体、この数の人間がどこから湧いてくるのだろう。それほど都会というわけでもない。


まるで虫の死骸に群がる蟻のように、明りに集まる蛾のように、この時間になると一斉に駅に引き寄せられてくる。


みんなどこへ行くというのだろう。そんなに早く家に帰りたいのだろうか。それとも電車は満員で乗るアトラクションだとでも思っているのだろうか。


僕は自宅から二つ手前の駅で電車を降りた。車内の圧迫感から解放され、ホームで立ち止まって新鮮な空気を取り入れていると、幾人もの人にぶつかり、舌打ちをされた。それで仕方なく歩き出す。


この駅で降りたのは初めてのことだった。特に明確な目的があってこの駅で降りたわけではない。なんとなく、車窓から眺めていた街の雰囲気が、のんびりとしているように見え、好ましい印象を抱いていたからだった。


実際、改札を抜け駅から出ると、今までとは違った世界に足を踏み入れたような、そんな錯覚に陥った。時間がゆっくり、流れているようだった。


辺りに目立ったものは特になかった。交番と本屋が一件、あとは個人経営の居酒屋だろうか、それくらいしか目に入らなかった。バス停もない。


僕は周辺の案内板があるのを見つけ、そこへ歩いて行った。

しばらくそれを眺めていると、そう遠くない場所に図書館があるのを見つけ、そこに行ってみることにした。ここからは、徒歩二十分だと書いてあった。


僕の息は歩き始めて五分もしないうちに軽く弾みだす。

普段運動とは隔離された生活を送っている代償だ。

以前は定期的に通っていたスポーツジムにも、最近は全く顔を出していない。それももう何年も前の話だ。


中学校の横を通り過ぎる。グラウンドでは生徒たちが野球に励んでいた。

また、グラウンドの端に作られたテニスコートでは、二対二のダブルスでのラリーが淡々と続いていた。黄緑色のボールは、規則正しくコートの上を往復する。それをしばらく眺めていると、まるでそれが永遠に終わることを許されない呪縛であるように僕は感じた。


僕はいたって普通の男だ――自分ではそう思っている。平日は会社に勤め、夜は定時に――残業して帰ることもあるが――家に帰る。煙草は吸わないが、たまに酒も飲む。


車を運転すれば、週に一回は妻とセックスもする。博学というわけでないが、大学も出ている。

しかし、ある一点においてだけ、常識からは逸脱した心を持っている。


それは、他人の心を、気持ちを、どうしても考えることが出来ないということだった。


昨夜の妻とのやりとりにしてもそうだ。

僕は間違っているのか、世間からはみ出した異端児なのか、考えれば考えるほど、そうであるような気がしてきて、僕は努めて別のことを考えようとしなければいけなかった。


たまたま目に入った歩行者専用信号機を見て、赤と青の関係性について考えてみる。


赤は赤という色で呼称され、青も同様に青という色で呼称される。

「赤君」でもなく、「青ちゃん」でもなく、赤は赤。青は青。


赤が存在しているときは、青は身を潜め、逆に青が表に出れば、赤は裏に回る。

一つの媒介の中で同時に存在することはないし、混じり合うこともない。


ただ、その見えているままが本当の世界なのだろうか。黄色と青を混ぜれば緑になる。

青は実際には緑であるし、視線を少しずらせば黄色も存在する。


重なった影は影の中に溶け込み、あたかもそこには境界線など存在しない。ただ、それは誰に判別出来るというのか。影たちの世界では、はっきりとした線引きがあり、秩序があるかもしれないじゃないか。


あれ……僕は何を考えていたんだっけ?思考がそれてきている……


しばらく立ち止まったまま考え、そうだった、赤と青の関係性についてだった……と、再び思考が良からぬ方へ向かおうとしていたとき、道路を走っていた車の流れが一旦止み、僕の目に映っていた信号機の色は赤から青へと変わった。


先程と垂直に交わるように車が流れ出し、それで僕も気を取り直して横断歩道を渡った。


それから交差点を二つばかり過ぎ道を右へ折れると、目的としていた図書館が視界に入った。


図書館を下から上に見上げる。三階建ての白い建物は、実際の高さより遥かに高く、優雅にそこに聳え立っているように見えた。


エントランスの前には、三毛猫が仰々しく座ってこちらを見ていた。

その姿は図書館に入ろうとする人々を監視し、選別しているかのようだった。あるいは守護。


野良猫だろうか。首輪は付けていないように見える。


昔は野良猫もたくさん見かけたが、今はほとんど見かけなくなった。いったいどこに行ったというのだろう。


引っ越し……それとも渡り鳥?猫だから渡り猫?定期的に戻ってくるわけでもないから、それもまた違うか……


そんなことを考えながら自動ドアをくぐり中へ入る。三毛猫の双眸が僕の後を追っていたが、結局何もしてはこなかった。

僕は図書館に入る資格を得たということだろうか。


階段で三階まで上がった。一階は公民館と体育館で、二階は児童書のフロアだと、入ってすぐの案内板に記してあった。


階段を上り終えると、正面に受付があり、そこには黒い長い髪が印象的な、若い女性が無表情に椅子に座っていた。


年齢は二十歳くらいだろうか。あるいはもっと上――彼女のその人形のような無表情のせいで――僕と同じくらいの年齢にも感じられた。

彼女の落ち着いた雰囲気も、それに拍車をかけていた。


彼女からはおおよそ人の持つ生気というものが全く感じられなかった。

利用者は意図的に彼女を避けているように見えた。受付にはもう一人、四十代と思われる女性の司書が座っていた。


僕は受付の前まで歩いて行き、「ずっと座っていて疲れたりしないの?」とその女性――ただ座っているだけだったが、おそらく司書であろう――に話しかけていた。


人見知りの僕がなぜそんな事を口に出来たのか、自分でもよく理解する事は出来なかったが、気が付いたら言葉が口から意思をもったかのように飛び出し、顔にはおおよそ愛想の良いと思われる笑顔まで浮かべていた。


彼女の服装は白い清潔感のあるブラウスに、その上にはオレンジ色のエプロン――この図書館の決まりなのだろう。同じものを身に着けている人が何人か確認できた――を着け、下はピッタリとしたジーンズという格好だった。


その毅然とした格好と同じように、僕の質問に対し彼女は、その無表情を崩すことなく、機械的に「疲れたりはしないわ。もし座位姿勢に疲労を感じたとしても、それをどうにかすることは出来ない。ここに座り続けることがわたしの責務であって、それは絶対条件、そして雇用条件でもあるから」と早口に言った。


僕はなんだか叱られている子供のような気分になり、彼女から目を逸らしその場を離れた。




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