【第88話】10年後の再会〜禁書編〜
「はぁ……はぁ……」
深い森の中、桃一郎はあてもなく彷徨っていた。
幾度となく足をもつれさせ、木々に手をつきながら前へ進む。
家を飛び出してから、食事も眠りもろくにとっていない。
その足取りはもはや夢遊病者のようにふらふらと頼りなかった。
――自分に何が起きたのか。
――自分は、何者なのか。
頭の中で繰り返される問い。それに答えるものは、誰もいない。
だがひとつだけ、はっきりとわかっていることがあった。
――自分の中に、“何か”がいる。
憎しみ、怒り、哀しみ――それらが一つになり、黒い渦のように心を侵食している。
あの時の“影”が、また現れたら。
次は、ミコトすらも……自分の手で傷つけてしまうかもしれない。
(俺は……もう、誰のそばにいちゃいけない……)
桃一郎はただ、村から、ミコトから、すべてから遠ざかろうと歩き続けた。
けれど――
ドサッ……
力尽きた身体は、その場に崩れ落ちた。
草の香り、土の冷たさが頬に触れる。
(もう……いい……このまま、全部……終わってくれ……)
目を閉じ、桃一郎は静かに意識を手放そうとした。
その時だった――
「さぁ、機は熟したな……久しぶりだ、桃一郎よ」
ぬるりと、闇の中から声が滲み出す。
ゆっくりと、黒いローブを纏った男が姿を現した。
その存在は、まるで空間そのものが歪んだかのような異様さを帯びていた。
「……だ、誰だ……」
桃一郎の声は、かすれていた。
「覚えていないのも無理はない。俺の名は――オロチ。お前の“親”だ」
「……な、何を……っ」
「聞いているだろう?あの男から。十年後、お前を“迎えに来る”と」
桃一郎の瞳が揺れた。
脳裏に、かつて養父から聞いたあの言葉が蘇る。
「まさか……大金を積んで俺を……あんな家に……っ」
「“捨てた”だと? 違うさ。置いたんだよ、最高の“土壌”に。お前が育つには、あれ以上ない“環境”だった」
「ふざけるな……!! あれのどこが環境だ!! あれは地獄だったんだぞッ!!ミコトと俺が、どんなに苦しんだか!!」
「だが、その地獄のおかげで、お前はこうして“目覚めかけている”ではないか」
「な…何を…目覚め…?」
「ところで、“ミコト”という名が出たな? もう一人いたのか……ほう、それは興味深い」
「ミコトは俺の……大切な兄弟だ。あいつといなければ、俺は……俺は、今ここにいなかった」
「“情”か……おもしろい……ならば、彼に会いに行こうか?」
「ダメだ……もう……ミコトには……近づくな……っ!」
桃一郎の声は震えていた。自分の中にある“もう一人の自分”――
それが、ミコトに牙を向くのではないかという恐怖に。
「暴走が怖いか? ならば教えてやろう」
オロチの声は、滑るように低く、不気味な響きを伴っていた。
「その黒い煙……俺は“影力”と呼んでいる。
それは“悪意”だ。君は悪意の結晶。悪意の具現化。
怒り、恨み、自己否定……それが形を持ち、世界に牙を剥く」
「悪意の結晶?…影力……俺の……中の……」
「そうだ。君は知らず知らずのうちに、それを育ててきた。
だが、覚醒にはもう少しだけ……“きっかけ”が必要だ」
「くっ……全部、話せ……! 俺に、真実を教えろ!!」
「ふふ……そう言うと思った。だが、知るにはまだ早い。
さぁ、少し眠ってもらおうか」
オロチの手刀が、無駄のない動きで桃一郎の鳩尾を突いた。
意識が、ふっと闇に沈む。
「くくく……やはり君は、最高の“素材”だよ。
ミコト……だっけ? いい情報を聞いた。
最後の“引き金”は、そいつで決まりだな」
オロチはぐったりとした桃一郎を肩に担ぎ上げる。
その足取りは迷いなく、村へ――“計画”の核心へと向かっていた。