【第85話】悍ましい研究〜禁書編〜
――ギィィ……。
離宮の門を押し開けた瞬間だった。
「……うっ」
鼻を刺す、腐った土のような臭い。
湿った空気が皮膚にまとわりつき、呼吸すら重くなる。
(……これは……なんの臭いだ…?)
オウエンは眉を寄せ、一歩、また一歩と暗い廊下へ足を踏み入れた。
かつては白い大理石が敷かれ、美しい庭を望む静かな離宮だったはずだ。
だが今――壁には黒ずんだカビが広がり、床にはどす黒い染みが点々と続く。
そして何より。
空気が重い。
胸を圧し潰すような、ねっとりとした“嫌な気配”。
(……ここで三年……オロチは……何を……)
震える指で、最も奥の扉へと手を伸ばした。
ギ……ギィ……。
扉が軋む音とともに開かれたその部屋は――
離宮の中で最も酷い有り様だった。
濃い悪臭が一気に流れ込み、オウエンは思わず口元を押さえた。
「ッ……ごほっ……!」
部屋の床・壁・天井……あらゆる場所に、
木の根のようなものが這い回っている。
それは生きているように微かに脈動し、
どこか温かく、湿り、ねばついていた。
(な……なんだ……この……気味の悪い部屋は……)
狂気の気配に満ちた空間。
ここが、かつて美しかった離宮の一室だとは誰も思えない。
静寂が続く中、オウエンは声を張った。
「オロチ! 今日で三年だ……姿を見せろ!」
瞬間――
「くっ……くっくっく……」
壁の奥。
闇の底から這い出すような笑い声が返ってきた。
その声は、紛れもなくオロチ。
ギィィ……。
椅子の向きを変えるような音。
そして、闇の中から“それ”が現れた。
「離宮をこんなにして、お前は一体何をっ……」
オウエンの全身が凍りついた。
「…………っ」
「……お、お前……その姿は……」
次の瞬間、
オウエンは本能で一歩後ずさった。
――オロチの右腕が、“樹”だった。
ねじれた古木のように太く、ぼこぼこと不気味に盛り上がっている。
皮膚は完全に樹皮へと変わり、ひび割れからは赤黒い液体が滲み出る。
指先は枝のように分かれ、
先端は刃物のように鋭く尖っていた。
腕から伸びる蔦のような血管が、うねり動いている。
それはまるで――“生きた木”が人の腕に寄生しているようだった。
「久しぶりだな……オウエン」
オロチはゆっくりと立ち上がった。
その顔には、かつての面影は残っていない。
代わりに宿っているのは、ただ一つ――
狂気。
「どうだ……美しいだろう?」
「うっ……」
オウエンの声は震え、
喉の奥から吐き気がせり上がる。
「説明しろ、オロチ……その腕は……なんだ……!」
「“成果”だよ」
オロチは静かに笑う。
木がきしむような、濁った声。
「これが……三年間の研究のすべてだ」
「成果……?」
「ふふ……」
オロチは、枯れた木の枝のような右腕を掲げながら――
自分の狂気を、誇りのように語り始めた。
「この三年で、ようやく"真理"にたどり着いた……。
ふふ……世界は、ここから変わる。変えるんだ……!」
その声を聞きながら、オウエンは唖然としていた。
(……こいつの体で…なにが起こっている……)
そう脳が理解するよりも早く、
本能が悲鳴を上げていた。
「真理…だと?」
「特別だぞ、オウエン。お前には“初めに”聞かせてやる。
これが私の――研究発表だ!!」
ゴクリ……。
オウエンの喉が、乾いた音を立てた。
「いいか、よく聞け。桃源村の木の弱点は……“枯れること”だ」
「枯れる…悪意を吸うあの木の事か…」
「そうだ! 悪意を吸いすぎると、あっけなく死ぬ。
国のあちこちに植えたところで、浄化など追いつくものか。
今のこの国は、腐りきっているからなァ!」
オロチは肩を震わせて嗤った。
「木を植える……オロチ、まだそんなことを……」
「いいから黙って聞け、オウエン!!」
叫びは部屋の根を震わせ、黒い蔦がビクリと動いた。
「俺はずっと考えていた。
“なぜ木は枯れる?”
“なぜ悪意に耐えられない?”
その答えに――気づいたのだよ」
オロチの目がギラギラと濡れ光る。
「木が枯れる理由……それは……
木に宿る魂が、もう死んでいるからだ。」
オウエンは息を呑む。
「……死んでいる……?」
「そうだ! 桃の木には“先祖の魂”が宿っていると言うだろう?
だが所詮は"死者の魂"だ!
死んだ魂ってのは“壊れかけの容器”みたいなものだ。
悪意を吸ってもすぐに溢れちまう。耐えられずに、木ごと潰れる!限界があるんだ!!」
オロチは机を叩き、狂気の笑顔で叫んだ。
「しかしなァ……俺は見つけたんだよ……!」
――ズズ……ッ、とオロチの木の腕が、まるで喜ぶように震えた。
「“生きた魂”ならば――
悪意をいくら吸っても、“枯れない”。
魂そのものを糧にして、逆に……永遠に育ち続ける。」
理解を超えた言葉だった。
理性ではなく、恐怖だけが体に染み込む。
「生きた魂……?お前は一体何を言っているんだ…」
「そうだとも!!」
オロチは胸を張り、狂信者のように語る。
「だから俺は――実験した!!
この身に、“桃の種”を植え付け、細胞と融合させた!!
生きた魂のままな!!」
「なっ…それで……お前は……そんな姿に……」
「見ろ!! これは共生だ!
俺の血が根になり、神経が枝になる!
意志が幹となり、魂そのものが樹を支える!!」
オロチの木の指先が、かすかに笑うように揺れた。
「これぞ人智を超えた進化だッ!!
俺は世界の悪意を吸い尽くす救世主!!
人と樹の――融合!!
神の領域だ!!!」
その瞬間。
オウエンは一歩、二歩と後ずさった。
心臓が冷たく締め付けられる。
恐怖。
ただの恐怖ではない――それは、世界の理が“歪められた”ことへの本能的な嫌悪だった。
目の前の男は、人を超えたわけではない。
人であることをやめ、理性の檻を踏み越えたのだ。
目の前に立つのは、天才でも王族でもない。
研究者でもない。
狂気そのものだった。
――だが。
悪夢は、ここで終わりではなかった。
そのときだった。
「……おぎゃあぁ……」
静寂を裂き、甲高い赤子の泣き声が、腐った空気を震わせた。
「……え?」
オウエンは、息が勝手に止まった。
この世で一番場違いな音。
この地獄のような空間で、赤ん坊……?
「ふふ……気づいたか。
そうだな……まだ“本命”を見せていなかったなァ」
オロチはねじれた木の腕を揺らしながら、部屋の奥へ歩いていく。
棚の上に、黒い布をかけられた“何か”が置かれていた。
「見せてやろう……オウエン。俺の――もうひとつの“傑作”を」
布が、ゆらりとめくられる。
その下にいたのは――
赤ん坊だった。
小さく、弱々しく、赤黒い毛布に包まれている。
寝息は浅く、肌は青白く、目の周りには黒い影のような痕。
それは確かに人間の赤子の形をしていた。
だが、何かが“違う”。
「な……なぜ、赤子が……ここに……?」
声が自然と震えた。
オロチは狂気と誇りを混ぜた笑みで、囁く。
「この子はな……オウエン。
“俺の腕”から生まれたんだ。」
「…………は?」
「そうとも!
この“樹の腕”から実った実が熟れ、
パカァッと割れてな……」
オロチはゆっくり、指を開いて見せる。
「中から――この子が這い出してきた。」
その光景が目に浮かび、オウエンの膝が震える。
「副産物……いや、予想外の奇跡だ。
悪意をたっぷり吸い、魂の器が満ちた果実が、
“人の形”になるなんて……!!
流石の俺も驚いたよ!ははははは!!」
「ひ、人を…作り出したのか…?」
「そう。創ったんだよ。命を。俺の手で。」
「オロチ……お前は……人の枠を……越えすぎている……!」
オロチの声が低く沈む。
次の瞬間、狂気を孕んだ笑みが爆ぜた。
「俺は“人の枠”を超えたんじゃない。
――最初から、超えているんだよ。」
「……驕りだ……」
「理解しろ、オウエン。
これは禁忌でも、暴走でもない。
"進化"だ。そして、俺がこの世界を導く。」
(……く、狂ってる……)
「よく考えれば当然の結果だ。
元々は人の悪意。
ならば、生まれてもおかしくはないだろう?
――こいつは“悪意の結晶”。
生まれながらの悪、
人の本質なのさ!」
赤子はその腕の中で、か細く泣き声を漏らす。
おぎゃ……おぎゃ……
その声すら、どこか不吉に聞こえた。
オウエンは悟った。
オロチは木と融合しただけではない。
“命”に手を出し、“産み落とした”のだ。
存在してはならないものを、この世に引きずり出した。
オロチは赤子の頬にそっと触れ、愛おしいものを見る目で言った。
「この子が――世界を変える。
俺が生み出した、最高傑作だよ。
……なぁ、オウエン」
その瞬間。
オウエンは確信した。
目の前の男は、もう人間ではない。
ただの一匹の怪物。
“悪意”そのものへと変わり果てた存在だった。
「……お前は……もう、人間じゃない……」
震える声で吐き出したオウエンの言葉に、
オロチは肩を震わせ――狂ったように笑った。
「はははっ! 今さら気づいたのか、オウエン?
だがな――“これから”なんだよ。
俺の研究は、ここから世界を作り変える!」
ねじれた木の腕が、天井を指す。
「さあ、門を開けろ。俺には使命がある。
世界の悪意すべてを吸い上げ、救済へと導く!
選ばれし者のやるべき仕事だ!」
「……ダメだ……今のお前を外に出せるものか。
お前は狂っている!」
「狂っているのは――貴様らだッ!!」
オロチの瞳が、ぎらりと赤黒い光で染まる。
「この三年、国はどうなった?
飢えは広がり、争いは絶えず、民は泣き続けている!
何一つ好転していないじゃないか!!
理想を語るだけの無能ども!
結果を出せるのは“俺”だけだ!!」
「ぐっ……!」
怒気と絶望を帯びた叫びに、オウエンは唇を噛む。
(……王に知らせないと……このままでは……!)
踵を返し、扉へ向かおうとした――
その瞬間だった。
ズシャッ!!
「――っ!?」
オロチの背中から、黒い“何か”が飛び出した。
影のようにドロリとうねり、蛇のように空を走り、
瞬時にオウエンの首へ巻き付く。
ギチ……ッ!!
「がっ……! く、くる……し……ッ……!」
影とは思えない、圧倒的な質量。
冷たく、ぬめり、締め付ける力は生物そのものだった。
「逃すと思ったか……?」
オロチが、ゆっくりと近づいてくる。
「こ、これは……なんだ……この…影……」
「ふふ……三年目の“もう一つの成果”だよ。
名づけて――影力」
「えい……りょく……?」
「悪意の具現化だ。
心の闇が形となった、純粋なる“負”の力。
進化が俺に与えた――栄誉の力だ。」
「ば……化け物め……」
「そう。だが、化け物でもなければ世界は救えんのだよ、オウエン」
影を操りながら、オロチは片手でオウエンの上着を探る。
そして――鍵を抜き取った。
チャリ……。
「お前は、ここで“真実”を聞いた。
ならば最後まで見届ける義務がある。
俺の計画の結末を――そして、自分たちの愚かさをな。」
「……っ……!」
次の瞬間、首を締めていた影が、“音もなく”消えた。
オウエンの体は、その場に崩れ落ちる。
視界が揺れ、呼吸が荒く、思考が追いつかない。
(……止めなければ……オロチを……)
朦朧とする意識の中、オウエンは必死に手を伸ばした。
だが――
オロチは、赤子を抱き上げながら、悠々と扉へ向かっていた。
床を踏むたび、
ベチャ……ベチャ……と湿った音が響く。
「くく……行こうか、我が子よ」
「おぎゃ……ぁ……」
「世界に、俺の偉大さを証明しよう――」
ギィィィ……ッ。
腐った離宮の扉が、軋む音を立てて開き――
そして、ゆっくりと閉ざされた。
バタン。
残されたのは、崩れ落ち、震えるオウエンと――
消えていく、赤子の泣き声だけだった。




