【第77話】黒い煙〜禁書編〜
「……おい。なんだ、その目は」
父親が苛立ちとともに、桃一郎の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
だが、桃一郎はわずかに眉を動かしただけで、静かに呟いた。
「……もう、我慢の限界だ……」
その言葉は、まるで胸の奥底で何年も燻っていた火種が、ようやく炎へと変わる音のようだった。
「なんだと……? てめぇらを拾って育ててやったのは誰だと思ってやがる! 道端で腐って死んでたはずのガキを――!」
叫びとともに、父親の拳が桃一郎の顔面を捉える。
鈍い音とともに、小さな体が吹き飛び、床を転がった。
だが、桃一郎は立ち上がり、顔を伏せながらも低く呻いた。
「……怒らせないでくれ。俺は……怒りで自分を見失うんだ……怖いんだ……自分が」
「はあ? 何わけのわからねぇことを……怒りだぁ!? 上等じゃねえか、やってみろよォ!」
そう言って、父親はさらに拳を振るう。
顔を、腹を、背を――執拗に殴りつける。
「やめてっ! お願い!!」
ミコトが悲鳴のような声を上げたが、父親は聞く耳を持たなかった。
「てめぇ、俺にそんな目を向けやがって……誰がそのツラしていいって言った!? ああ!? 何が怒りだ、笑わせんなぁ!!」
殴られ続ける中、桃一郎は呟き続けていた。
「……ダメだ……抑えなきゃ……怒りを……抑えろ……」
「気持ち悪いガキだな……そんなに怒りてぇんなら、いいこと教えてやるよ」
父親は桃一郎の胸ぐらを掴んで引き寄せた。そして――耳元で囁く。
「お前な、ある男に頼まれて引き取ったんだよ。『育ててくれたら金をやる』ってな。前金までくれるってんで、俺たちゃありがたく引き受けたのさ」
「……えっ……」
「条件はたったひとつだったよ。『死ななければ、何をしてもいい』……ってな。ははは! 何のつもりか知らねぇが、どこの誰だか分からんヤツがよ、赤ん坊を抱えて金を積んで来たんだ。面白ぇだろ?」
その言葉に、桃一郎は動きを止めたまま、静かに顔を伏せた。
ミコトは耐えきれず、涙を流した。
「そんな……あんまりだ……」
そのときだった。
――シューッ……
まるで命の奥底から滲み出るように、桃一郎の体から、黒く、重たい“煙”のようなものが立ち上がった。
それは瞬く間に、彼の全身を包み込む。
「な、なんだこれは……!?」
父親が思わず手を放し、一歩後ずさる。
「うぅ……あぁああああ……」
桃一郎は両手で頭を押さえ、唸り声を上げながらのたうち回る。
目は血走り、呼吸は荒く、膝をついて痙攣しているようにも見えた。
そして、静かに立ち上がった。
その声は低く、凍るように冷たかった。
「……殺してやる」
黒い煙が蛇のように唸りをあげ、両親の喉元へと絡みつく。
その瞬間、空気が一変した。
「な、なんだこれは……!? く、くるしい……!」
父が喉を押さえ、もがき始める。
母もまた、煙に包まれ、悲鳴すらあげられないほどに顔を歪めていた。
「お前たちは……俺の親なんかじゃない。
……お前らは、許さない……」
桃一郎の言葉に呼応するかのように、煙がさらに強く締めつける。
「く、くるしい……た、たすけ……!」
泡を吹き、目を白黒させる二人。
「許さない……許さない……許さない……!」
その姿はもはや、人の形を保っていなかった。
怒りという名の獣が、少年の体を支配していた。
「桃一郎っ!! もう死んじゃうよ!! やめてぇ!!」
ミコトの叫びが、夜を裂いた。
その言葉が、炎と化した怒りの海に冷たい水を注ぐ。
ハッ――と息を呑み、桃一郎の瞳に僅かな理性が戻る。
煙がゆらりと揺らぎ、空中で溶けるように消えた。
ズシン、と両親の体が床に崩れ落ちた。
桃一郎はその場に膝をつき、肩を大きく上下させながら、必死に息を整えた。
「はぁっ……はぁ……」
全身から吹き出す汗。
剥き出しの恐怖が、その背中に張り付いていた。
ミコトがおそるおそる近づくと――
「ダメだッ!! 来るな!!」
突然、桃一郎が叫び、ミコトを突き飛ばした。
「近寄るな……お前を……殺してしまうかもしれない……!!」
「な、何を言ってるんだよ……」
「くそっ……!!」
桃一郎は、そのまま走り去った。
夜の帳の中へ。自分自身の“恐ろしさ”から逃げるように。
彼の背中は、黒い煙の残り香を残して――静かに闇に溶けていった。