【第75話】全ての始まり〜禁書編〜
第三章___禁書編
時は、およそ170年前へと遡る。
その頃の世界は、深刻な闇に覆われていた。
凶作が続き、国々は飢えに苦しんでいたのだ。
飢餓は人々の心を蝕み、隣人同士が奪い合い、血を流し合うのが日常となっていた。
法も秩序も、すでに形骸化し――もはや、どこにも“安らぎ”という言葉は存在していなかった。
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そんな混沌の時代の、一つの村。
名を、桃源村――
山あいの静かな地にひっそりと佇むこの村は、周囲を無数の桃の木に囲まれていた。
春には花霞のように淡い桃色の花が咲き乱れ、風に揺れては村を優しく包み込んでいた。
この村には、太古より祀られてきた三柱の神々がいる。
――三柱神。
村人たちは、毎朝欠かさずこの神々に祈りを捧げていた。
それは信仰というより、ほとんど“縋る”ような願いだった。
終わりの見えない、苦しみの時代の希望。
それが三柱神だった。
「どうか、どうか……この苦しみに終わりを――」
疲れ果てた声が、風に乗って桃の木々の間をすり抜けていく。
すべては、この村から始まった。
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村の外れ、森に飲み込まれそうな小さな家がある。
それは家と呼ぶにはあまりにも粗末な、今にも崩れ落ちそうな掘っ建て小屋だった。
そこに暮らしていたのは、両親と、年の近い兄弟――合わせて四人の家族。
だがその家に温もりはなく、漂っていたのは貧困と絶望、そして――暴力の匂いだった。
「……おい、あんたら!本気で働いてきたんだろうね!?なんだい、このみじめな稼ぎは!」
怒鳴り声が室内に響き渡る。
髪は乱れ、目は落ちくぼみ、痩せこけた体の女――この家の“母親”だ。
その目には、もはや母性の欠片もない。
「……ちゃんと働いたよ……でも、今はどこも食わせるので精一杯なんだ……これで勘弁してくれよ……」
小さく頭を下げて差し出したのは、息子のひとり。
深い黒の瞳と、煤けたような黒髪――
"桃一郎"と呼ばれる少年だった。
まだ12歳。だが、その目には歳不相応な諦めと闘志が同居していた。
隣に立つもうひとりの少年
――名は"ミコト"。
金髪に透き通る青い瞳。彼も同じ年頃だが、どこか“人間離れ”した静けさを纏っていた。
この家では、子どもたちが働き、家を支えていた。
「……口答えかい?お前を拾ってやった恩も忘れたのかい!」
母親の叫びとともに、酒瓶が投げつけられた。
――ゴツン!
乾いた音が室内に響く。
それはミコトの額に当たり、赤い筋が額をつたって流れ落ちた。
「てめえっ……!」
桃一郎が母に掴みかかろうとする。
だがその手を、ミコトはそっと掴んで止めた。
「……大丈夫。僕は、平気だから」
彼の声は驚くほど静かだった。
「大丈夫って、お前、血が……っ」
しかし、それを見た母は逆上する。
「桃一郎!今、アタシに手を上げようとしたね!この恩知らずがァ!!」
バタン――
騒ぎに気づいたのか、戸が開く。
現れたのは、骨ばった体に酒の匂いを漂わせた、父親だった。
「なんだ……騒がしいと思ったら……これか……? は?なんだこのはした金は!こんなんで酒が買えるかボケが!!」
怒鳴り声とともに振るわれる拳。
ふたりの少年に、容赦ない暴力が降りかかった。
――これが、桃一郎とミコトの“日常”だった。
来る日も来る日も、罵声と暴力。
彼らの心を繋ぎ止めていたのは、たったひとつ――“希望”だけだった。
夜。
家族が眠る頃、ふたりは音を立てぬよう外へ出る。
それが、唯一の“自由”だった。
「……いてて……いつまで続くんだよ、こんな生活……」
青あざの頬を押さえながら、桃一郎が漏らす。
「でも……もう少しだよ。あと少しで、予定額に届く」
静かにそう呟くミコト。
――予定額。
ふたりが密かに貯めてきた旅立ちの資金。
この地獄のような家を抜け出し、新しい人生を手に入れるための唯一の“切符”だ。
「なぁ、ミコト。俺たちは血が繋がってねぇ。でもさ、俺は……お前を本当の兄弟だと思ってる。いや、それ以上だ!」
桃一郎の声に、ミコトは少しだけ微笑んだ。
「……僕も、君に会えてよかったよ。桃一郎」
――絶望の時代に生まれた、ふたりの少年。
運命に引き裂かれそうになりながらも、希望だけは――まだ、手放していなかった。