【第72話】目覚めの森
静かな森の中――鳥のさえずりと、風に揺れる葉の音だけが響いていた。
その静寂を破るように、サブロウはゆっくりとまぶたを開けた。
見慣れない天井。
柔らかな布団の感触。
そして、全身に残る鈍い痛み――。
意識が次第に鮮明になっていく。
「……ここは……」
手を動かそうとした瞬間、左腕に鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
顔をしかめる。骨が軋む感覚が蘇る。
(そうだ……俺は……ホレスとの決戦のさなか――鬼に連れられ…)
その先の記憶は霞んでいた。
その時、奥の扉が開いた。
「動かない方がいい。まだ三日しか経っていないんだ」
現れたのは一人の男。歳は三十代後半ほどだろうか。
ただの市井の人間ではないと、サブロウはすぐに悟った。
その眼差しには、数えきれぬ過去を背負った者の影があった。
「……あんた、誰だ?」
「名はヘンリー。かつてこの国の王だった者だ」
「ヘンリー……!? 前王……!」
驚愕するサブロウを前に、男は静かに頷いた。
「今はただの一市民にすぎん。……だが、君が目を覚ますのを待っていた」
サブロウは荒れた呼吸のまま問いかける。
「戦いは……どうなったんですか……!? ホレスは!? モーモー太郎さんは!?」
ヘンリーは一瞬だけ目を伏せ、やがて低く告げた。
「大丈夫だ。……モーモー太郎君が、ホレスを倒した」
その言葉に、サブロウの全身から力が抜ける。
張り詰めていた心が、一気にほどけていった。
「そうですか……よかった……本当に……」
安堵の吐息。だが次の問いは震えていた。
「じゃあ……モーモー太郎さんは……?」
ヘンリーの表情が曇る。
「残念ながら、彼の行方はわからない。戦場に彼の姿だけが――なかった」
「……そんな……!」
サブロウは歯を食いしばった。
「探しに行かないと……!」
「君の体では無理だ。今は休め」
「でも……!」
「大丈夫だ。今、私の間者が探している」
布団を握りしめる拳が震える。
唇も、膝も、心までも。
悔しさと無力感が、胸を締め上げる。
「俺は……仲間を、また失った……。俺は、何を……守れたんだ……」
声はかすれ、涙が滲んだ。
そのとき、温かな声が彼を包む。
「サブロウ。まだ終わってはいない」
驚いて顔を上げると、ヘンリーが近くに腰を下ろし、差し出された湯呑からほのかな香りが立ちのぼっていた。
「立ち止まるな。君は託された者だ。……未来を選ぶのは、これからだ」
湯を口に含むと、不思議と力が湧いた。
サブロウの瞳が、再び前を見据える。
「ありがとう、ヘンリーさん……。弱音を吐くのは、これで最後です」
決意を込めて、言葉が続く。
「俺には、まだやらなきゃいけないことがある。王宮にある人工桃の木……これから生まれる桃人を放ってはおけない。
そして――戦場に現れたあの“黒い桃”。あれを……必ず止めなければ」
ヘンリーはゆっくりと頷いた。
「モーモー太郎君も、君のその心を信じたのだろう。……だからこそ託されたんだ」
そう言うと彼は立ち上がり、隣室の扉を開いた。
中には、古びた文献や地図、何十冊もの書物が整然と並んでいる。
「――ここに、“世界の秘密”がある」
その言葉は重く、部屋の空気を変えるほどの力を持っていた。
サブロウは紅茶の湯気越しに、ヘンリーの瞳を見つめる。
それが何を意味するのか、本能で察していた。
やがて、静かに立ち上がる。
痛みはあった。だがそれ以上に――決意があった。
「……教えてください」
ヘンリーはわずかに目を細め、静かに頷いた。
長き沈黙の扉が、今、開かれようとしていた。




