【第64話】暗雲
モーモー太郎は怒りのままにホレスへと拳を振るった。
すでに深い傷を負ったホレスには、抵抗する術すら残されていなかった。
「はぁっ……はぁっ……!」
息を荒くしながらも、モーモー太郎はなおホレスを睨み据える。
「な……何をそんなに感情的になっている……こいつの役目だったんだ。ただそれだけの話だろう」
ホレスの言葉に、モーモー太郎の目が怒りに燃える。
「“役目”だと……? 身を挺してお前を庇ったんだぞ!? 命懸けで守ろうとしたんだ! あいつは……お前の“仲間”だったんだぞ!!!」
その言葉に対し、ホレスは薄く笑みを浮かべた。
「仲間……ふっ、笑わせるな。そんな幻想、世の中には存在しない。あるのは強者と弱者、支配する者とされる者……それだけだ」
「……ホレス、お前は本当に……悲しい奴だな」
モーモー太郎はその胸倉を掴み、怒りの震えを抑えきれず声を震わせる。
だが――ホレスもその手を掴み返し、狂気を帯びた目で吠えた。
「貴様らには……わからないんだ!! 私の苦悩が! この憎しみが!! 私は世界が――すべてが、憎いんだ!!!」
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
ホレスの身体から、黒く濁った影力が噴き出した。
それはまるで炎のように揺らめき、やがて禍々しく燃え上がっていく。
「な、なんだ……!? この影力……!」
モーモー太郎と鬼はすぐに距離を取った。
「これは……悪意じゃ。人の負の感情を源にした影力……だが、これは尋常ではない。見るだけで気を狂わされそうになる……!」
鬼の声にも緊張が走る。
そして、肝心のホレス自身すら――その影力を制御できていなかった。
「ぐぅっ……あああああ!!」
頭を抱え、うめき声をあげるホレス。まるで自分の中から溢れ出す“なにか”に、肉体も精神も喰い破られそうになっているかのようだった。
「あやつは……自らの悪意に呑まれておる。力を欲しすぎたがゆえに……今、己がその代償を払おうとしておるんじゃ」
その時___
ズズズズズ……!!
影力の膨張とともに、空が不穏に唸りをあげた。
雷鳴が低く、空の彼方から響く。
「な、なんだ……!? まだ昼のはずなのに……!」
ヨサクが空を見上げる。
見る間に、戦場の上空に分厚い暗雲が渦巻き始める。まるで天地がホレスの悪意に反応しているかのように、光は一気に遮られ、世界が灰色に塗りつぶされていく。
その影力は、周囲の風景すら歪め、空気を揺らしていた。
「ぐあああああああああ!!!!!」
ホレスの咆哮が戦場を揺るがしたその瞬間――
ピシィィ……ン
空を引き裂くように、一筋の光が走った。
「なんだ…あの光は…」
空を覆っていた暗雲が、ゆっくりと……本当にゆっくりと、その中心を裂かれ始める。
その裂け目から、静かに差し込む光。
冷たい灰色に染まった空に、異質な輝きが注がれる。
「……っ」
誰もが言葉を飲んだ。
その光はまるで“何か”を導くかのように、ホレスの頭上を静かに照らし出す。
しん……と、空気が静まり返る。
まるで時が止まったかのような錯覚。
そして――
光の中から、“それ”は現れた。
すうっ……すうっ……
風もないのに、枝が揺れている。
空からゆっくりと、まるで重力すら無視して舞い降りてくる"巨木"。
金色に透き通る葉。
幹は白金に輝き、ねじれた樹皮が脈を打つように脈動している。
そして、その根元には……黒い煙のような影が纏わりついている。
不気味な静寂の中、神々しさと同時に、どうしようもない“おぞましさ”が滲んでいた。
「な、なんだ……あれは……」
誰かが震える声で呟く。
それは美しさと恐怖が絶妙に同居する“存在”だった。
見る者の心を奪う。だが近づいてはいけないと、本能が警告している。
空から現れたのは…
――桃の木。
悪意を糧に育つ、一本の伝説の木。
「……間違いない。あの悪意に満ちた禍々しい影力……やつに引き寄せられたんじゃ」
鬼がぽつりと呟いた。
空から降り立ったその桃の木は、ただそこに“存在する”だけで、戦場全体の空気を変えた。
――悪意のすべてを集めし、災厄そのものだった。