【第6話】王族の男
それは、敗北から二度目の満月の夜だった。
港町ルーモニアの外れ、海風に潮の香りが混ざる小さな酒場の一隅――
灯りは控えめに揺れ、酒精の香りが木の壁に染み込んでいる。
その奥まった席に、一頭の牛と、一人の男が向かい合っていた。
男は四十ほど、壮年に差しかかる年頃。
端整な口元には丹念に整えられた髭が宿り、深い瞳には静かな威厳があった。
身にまとう衣は質素ながらも見事な仕立てで、袖や襟には繊細な金糸の刺繍が施されている。
そのたたずまい一つで、彼がただ者ではないと知れた。
対するは――モーモー太郎。
まだ傷癒えぬ身を静かに椅子へ預け、その双眸にかすかな憂いを宿している。
鬼との戦いは、彼に多くを奪った。
肉体の痛み以上に、心に刻まれた敗北の烙印が重くのしかかっていた。
それでも彼は、この港町を離れなかった。
その理由は、ただ一つ。
――次こそ、鬼を倒すため。
満月の光が酒場の小窓から差し込む中、男が口を開いた。
「突然、無礼を承知で訪ねさせてもらった。君に、どうしても尋ねたいことがあってな」
その声は落ち着いていて、どこか政を語る者の響きを持っていた。
モーモー太郎はゆっくりと視線を上げた。
「僕に……何の用ですか」
その言葉には冷たさがあった。
「物珍しさで来たのなら、悪いが……僕はただの牛です」
険しさを含んだ声。
それは敗北と孤独の中で鍛えられた、覚悟の色だった。
だが、男は微笑し、首を横に振った。
「君が“ただの牛”であるはずがない。鬼を退治しようとした者がいると聞いて来てみれば……その勇者が牛だったとは、まさか夢にも思わなかった」
モーモー太郎は瞳を細める。
「……あなたは、何者ですか?」
男は一拍の間を置き、ゆっくりと名を告げた。
「私はホレス。王族の一人だ」
その名を聞いた瞬間、モーモー太郎の目が見開かれる。
「――王族……!」
ガタン、と椅子を鳴らして立ちかけた彼を、ホレスが静かな手振りで制した。
王族――それは、この国において人々が遠く仰ぎ見る存在。
民がその姿を直接目にする機会など、まずない。
その人物が、今こうして目の前にいるという現実に、モーモー太郎は言葉を失っていた。
ホレスは静かに続けた。
「君の名は、王宮にまで届いているよ。私自身の目で確かめたくてね。……君のことを、少し教えてもらえないか?」
沈黙が落ちた。
モーモー太郎はしばし目を閉じ、それから静かに語り始めた。
己が生い立ち、山奥の暮らし、鬼への想い、そして敗北――
一つひとつの言葉を丁寧に紡いでいった。
語り終えたとき、ホレスの頬を一筋の涙が伝っていた。
「……泣いているのですか?」
驚いたように問いかけるモーモー太郎に、ホレスは微笑んで答えた。
「すまない……少し、胸に来るものがあってな。君は、真に勇敢な者だ」
そしてふと問いかける。
「……君は、“桃から生まれた救世主”の伝説を知っているか?」
モーモー太郎は即答した。
「もちろんです。鬼を討ち、世界に平和をもたらした英雄のことですよね」
ホレスは深く頷いた。
「私も子どもの頃、寝物語のようにその話を聞いた。……そして今、君を見て思うんだ。もしかしたら、あの伝説は終わってなどいなかったのかもしれない、と」
彼は顔を伏せ、苦々しく呟いた。
「本来なら、鬼の問題は政治を担う我々の責務だ。だが、私たちは長らく見て見ぬふりをしてきた……」
モーモー太郎は静かに耳を傾けていた。
そして、ぽつりと語る。
「鬼が現れて、十五年。……僕は、直接の被害を受けたわけではありません。でも、国中がずっと怯えていた。その空気が……嫌だった」
「だから、変えたかった」
ホレスの目が細められた。
「その勇気は、どこから来る?」
モーモー太郎はしばし沈黙し、やがて静かに答えた。
「分かりません。ただ……“僕がやらなくて、誰がやる”って、そう思うと、体が勝手に動くんです」
ホレスはしばらく目を閉じ、深く息を吐いた。
「……その使命感、そのまっすぐさ……君こそ、本当の意味で“救世主”なのかもしれないな」
モーモー太郎は苦笑した。
「僕は、一度鬼に敗れました。だから、救世主だなんて……でも次こそは、倒してみせます」
「勝算は?」
「あります。僕はこの二ヶ月間、鍛錬を積んできました。そして……これを」
懐から取り出した小さな包み。
その中には、ひとつの“きびだんご”が収められていた。
ホレスの瞳が見開かれる。
「……それは、まさか……!」
モーモー太郎は頷いた。
「お爺様とお婆様から託されたものです。“困ったとき、これを使え”と」
ホレスは小さく息を呑んだ。
「伝説の、きびだんご……本当にあったのか……」
彼の眼に、新たな光が宿った。
「モーモー太郎君。私は、君という存在をもっと深く知りたい。――君の原点を、見せてくれないか? 君が育った家へ、案内してもらえないだろうか?」
モーモー太郎は少し驚いたが、やがて微笑んだ。
「構いません。でも、山奥の古い家です。お爺様とお婆様が静かに暮らしているだけで、何もありませんよ?」
ホレスは毅然と頷いた。
「それでいい。いや、それをこそ知りたいのだ。……この国を変えるために、君を知ることが、きっと必要なのだと、今はそう思っている」
満月が高く昇る夜――
ふたりは席を立ち、静かに歩き出した。
物語は、新たな局面へと動き始める。