【第56話】北へ
レジスタンスは、かつてないほど強固な力を手にしつつあった。
もちろん、それは一朝一夕に築かれたものではない。
血を流し、仲間を失い、何度も地に叩きつけられながら、それでもなお立ち上がってきた者たちだけが、ようやく掴み始めた小さな成果だった。
最初は、ただ桃人の圧倒的な力に抗うだけで精一杯だった。
一つの町で一体の桃人を退けるだけでも、命懸けだった。
勝てても傷だらけ、負ければ奪われるものばかり。
その戦いの積み重ねは、前進というより、溺れぬために必死で水をかいているようなものだった。
しかし今は、違う。
サブロウと桃十郎の著しい成長。
そして、各地でじっと耐え忍んでいた志ある者たちが、少しずつ、だが確かにレジスタンスの旗のもとへ集い始めていた。
町をひとつ解放すれば、その噂が次の町へ届く。
そこからまた、新たな協力者が現れる。
武器を持てぬ者は食糧を差し出し、剣を扱える者は志願兵となり、傷ついた者は後方支援へ回る。
火は、もう消えかけた灯ではなかった。
乾いた草原の下を、見えないまま広がっていく火脈のように、各地へ静かに浸透しつつあった。
レジスタンスは徐々に、“反攻”へと転じていたのである。
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夜。
山間の隠れ家。
岩肌をくり抜くように築かれた仮設の拠点の一室で、サブロウと桃十郎は、粗末な木机を挟んで向かい合っていた。
机の上には地図。
いくつもの赤い印と、黒い×印。
解放した町。失った仲間。桃人の巡回路。徴税路。補給線。
それらすべてが、今の王国の傷口のように刻まれている。
「……桃十郎」
サブロウが、低く切り出した。
以前よりも少し低く、よく通る声になっていた。
半年という時間が、彼から少年らしさを削り取り、代わりに“率いる者”としての重みを与えていた。
「俺たちは、少しずつだが町を解放できてきている。だが……まだ、越えなければならない壁がある」
桃十郎は腕を組んだまま、静かに目を細める。
「ああ」
短い返事。
だがその一言の奥には、同じ結論へ辿り着いているという確信があった。
「……“特秀”だな」
サブロウは静かに頷いた。
「ホレスが生み出した最高傑作。影力を操り、知能も身体能力も他とは桁違い……その異形の五体を、俺たちは“倒さなきゃいけない”」
その言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。
“特秀”。
ただの桃人ではない。
数で押し切る通常桃人とも、扱いに困って捨て置かれた欠陥品とも違う。
名を与えられ、役割を与えられ、ホレスの理想を最も濃く体現するために造られた存在。
彼らがいる限り、ホレスの支配は単なる暴政では終わらない。
それは“体系”となり、“制度”となり、この国の骨そのものを変えてしまう。
「奴らが立ちはだかる限り、俺たちの“勝利”はありえない」
サブロウの声は、落ち着いていた。
だが、その言葉の裏には重い覚悟が滲んでいた。
桃十郎の表情が、ぎゅっと引き締まる。
「……そして、王宮の桃の木を断ち切る」
その言葉は、剣のように真っ直ぐだった。
「ホレスを――討つ」
サブロウは、桃十郎の視線を正面から受け止める。
「必ず取り戻そう。元の世界を」
拳が、机の上で静かに握られる。
「弱者が踏みにじられない、当たり前の暮らしを」
その言葉の奥に、サブロウはある面影を思い浮かべていた。
――あの日、別れたままの仲間。
――最後まで一人で立ち、彼らを逃がした、あの背中。
(……モーモー太郎さん)
声には出さず、胸の内だけで呼ぶ。
(俺たちは、ここまで来ましたよ)
夜の冷気が、肺の奥まで沁みる。
(あれからもう、半年が経ちました。レジスタンスは、確かに力をつけました。町も、人も、少しずつ取り戻している。……あなたは、今どこにいるんですか)
サブロウは、あの日届いた手紙を何度も読み返していた。
紙はすでに擦り切れ、角は丸くなり、折り目の部分は薄く白んでいる。
それでも、その文字に込められた意思だけは、少しも褪せなかった。
――それ以降、モーモー太郎からの消息は途絶えていた。
生きている。
そう信じている。
だが、信じることと、確かめられないことは別だった。
サブロウの胸には、いつも小さな焦燥が燻っていた。
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「それで、サブロウ」
桃十郎が机上の地図に指を置く。
「……特秀の居場所、掴めたのか?」
「ああ」
サブロウは頷き、地図の北側に記された印を軽く叩いた。
「――“北の町ホクト”」
その名が出た瞬間、桃十郎の目つきが変わる。
「そこを奴らが完全に掌握しているらしい。特秀の一体……奴がいる」
「……なら、こっちから仕掛けるんだな」
「初めての“特秀戦”だ」
サブロウの声が、少しだけ低くなる。
「慎重にいくぞ。奴らは、これまでの桃人とは別格だ」
桃十郎は小さく鼻を鳴らす。
「分かってる。だからって、避けて通れる相手でもねぇ」
「そうだ」
サブロウは真っ直ぐ答えた。
「ここを超えなきゃ、この先には進めない」
北の町ホクトまでは、ここから二日ほどの道のり。
山を越え、乾いた平野を抜け、岩場の多い北方地帯へ入る必要がある。
補給も容易ではなく、奇襲を受ければ逃げ場も少ない。
それでも、行かねばならない。
サブロウは精鋭二十名を選抜し、北の町ホクトへの進軍を開始した。
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北へ向かう道は、荒野だった。
生命の気配が薄い。
乾いた大地には無数の裂け目が走り、草は黄ばんで地面に貼りつき、遠くの丘は風に削られて鋭い骨のような輪郭を晒している。
風が頬を刺す。
熱いわけではない。
だが乾ききっていて、肌を削るような冷たさがあった。
ブーツが砂利を踏むたび、じゃり、と鈍い音がする。
隊列は長すぎず、短すぎず。
サブロウを先頭に、桃十郎がやや後方を固め、残る十八名が周囲を警戒しながら進んでいく。
誰も口を開かない。
緊張がある。
それ以上に、これから向かう先の重さを、全員が理解していた。
――初めての特秀戦。
失敗すれば、ただでさえ立ち上がり始めたばかりの反攻の流れが、一気に潰される可能性もある。
だが勝てば、世界は確実に変わる。
風の音だけが、ひゅう、と荒野を渡っていった。
そんな中――
フラ……フラ……
ひとりの男が、砂塵の向こうからふらつきながら歩いてきた。
最初にそれを見つけたのは、先頭左翼を警戒していた団員だった。
「……人影!」
その声に、全員が足を止める。
砂の向こうから現れた男は、今にも倒れそうだった。
足取りはおぼつかず、片膝が折れかけ、それでも何かに取り憑かれたように前へ進もうとしている。
「はぁ……はぁ……!」
喉が焼けているような呼吸。
服は裂け、全身が血に染まり、肩口から脇腹にかけては深い裂傷がいくつも走っていた。
乾いた血の上から、新しい血が流れている。
それだけで、この男がここへ来るまでにどれほど無理を重ねたか分かった。
「あ、あんたら……!」
男が顔を上げる。
目は血走り、焦点も定まりきっていない。
「まさか……解放軍、か!?」
「解放軍……?」
サブロウが眉をひそめる。
「なんだ、それは?」
男はその問いに、ほんの一瞬だけ呆けたような顔をした。
そして次の瞬間、警戒と混乱が一気に噴き上がる。
「くそっ……違うのか……!」
男はふらつきながら、腰の剣を引き抜いた。
シャッ、と金属音が走る。
だが、その刃は情けないほど震えていた。
手首が定まらず、切っ先がカチ、カチ、と小石に当たる。
サブロウはすぐに片手を上げ、後続へ制止を送る。
「おい、待て! 落ち着け!」
桃十郎も一歩前へ出るが、すぐには飛び込まない。
この男は敵ではない。
少なくとも、今ここで本気で斬りかかって来られる状態ではない。
だが男は、もはや理性の糸が切れかけているのか、震える声で叫んだ。
「じゃあ……何者だ!? お前らも、俺を殺しに来たのかッ!!」
その叫びとほぼ同時だった。
ドサッ!
男は、その場に力尽きて崩れ落ちた。
剣が手から離れ、乾いた音を立てる。
身体は痙攣するように小さく揺れ、荒い呼吸だけがかろうじて続いていた。
サブロウと桃十郎は、警戒を崩さず男へ近づく。
「……この傷、尋常じゃない」
桃十郎が低く言った。
近くで見ると、さらに酷かった。
何十もの切り傷。
皮膚は裂け、深いところは肉が抉れ、ところどころ骨が覗いている。
それだけではない。
腕や脇腹には、斬撃というよりも、執拗に痛めつけられたような跡があった。
「何があった?」
サブロウがしゃがみこみ、声を落として問う。
男は血の味を噛みしめるように、唇を震わせた。
「……あんたら……もしかして……北の町の、“特秀”を狙ってるのか……?」
「ああ」
サブロウの目が鋭くなる。
「お前は……何か知っているのか?」
男は、ひゅっと短い笑いを漏らした。
それは笑いというより、乾いた絶望の音だった。
「ふっ……ははは……やめておけ……」
焦点の合わぬ瞳のまま、空を見上げる。
「あの男は……狂ってる……」
その言葉に、隊列の後方まで緊張が伝播する。
「……お前は、一体……」
サブロウの問いに、男はしばし呼吸を整えようとした。
だがそれもままならず、喉の奥から血の混じる音を漏らしながら答える。
「俺は……276号」
その名乗りに、レジスタンスの何人かが小さく息を呑む。
「桃人だ」
荒野の風が、一瞬だけ強く吹いた。
サブロウと桃十郎は、顔を見合わせる。
桃人。
しかも逃亡者。
それだけでも異常だ。
276号は、かすれた声で続ける。
「……特秀の、ボスにやられた……俺の仲間たちも……次々と……」
その言葉に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
桃人が――桃人に殺された?
「仲間内で殺された……だと?」
桃十郎が、思わず低く呻く。
「……あいつは、“生かす気”なんて最初からない」
276号の瞳は、何か恐ろしいものを見たまま固定されていた。
記憶の中の光景から、まだ逃げ切れていない目だった。
「誰が味方で、誰が敵か……そんな区別さえ、あの男には存在しない……」
その声は震えていた。
恐怖だけではない。
理解の及ばない狂気を目の当たりにした者だけが持つ、生理的な嫌悪と混乱が混じっている。
サブロウは問いを重ねる。
「その“ボス”ってのは、特秀のことか?」
「そうだ……」
276号はかすかに頷く。
「北の町ホクトを掌握してる……あいつが……上に立ってる……」
「何が起きてる?」
サブロウの問いに、276号は力なく笑った。
「何が……? 全部だよ……」
目尻から涙とも汗ともつかぬものが流れた。
「俺は……解放軍に……助けを求めに来た……のによ……」
その言葉に、サブロウの眉がさらに寄る。
「解放軍って、誰のことだ」
だが276号は、そこまでだった。
「くそ……ツイてねぇ……」
自嘲とも、諦めともつかぬ呟き。
そのまま――
ガクン。
男の身体から力が抜けた。
目の焦点が消える。
呼吸が止まり、胸はもう上下しない。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
ヒュウウ……と、荒野を風が吹き抜けていく。
サブロウは立ち上がり、しばらく黙って276号の亡骸を見下ろしていた。
「“解放軍”……?」
低く呟く。
聞き慣れない言葉だった。
レジスタンスではない、別の勢力。
それとも北の町でだけ使われている呼称なのか。
さらに――桃人同士が殺し合うという、信じがたい話。
「北の街……一体何が起こっているんだ……」
サブロウは東の空を見上げた。
太陽は昇っているはずなのに、その光は妙に鈍く霞んでいる。
世界そのものが、薄い灰色の膜を一枚かぶってしまったようだった。
桃十郎が、276号の亡骸へ視線を落としたまま呟く。
「……ただの統治じゃねぇな、こりゃ」
「ああ」
サブロウの返事は短い。
「特秀が町を掌握してる、ってだけでも十分異常だ。なのに桃人まで逃げ出して、別の軍を探してた……」
後方の団員のひとりが、慎重に口を開く。
「隊長……進みますか?」
サブロウはしばし黙る。
判断を誤れば、全員が死ぬ。
だが、ここで引けば、何も分からないままだ。
やがて彼は、ゆっくりと頷いた。
「進む」
その一言で、全員の背筋が伸びる。
「ただし、ここから先はさらに慎重にいく。北の町ホクトは、俺たちが想定していたよりもずっと異常だ。
相手は特秀だけじゃないかもしれない。
桃人の内部で何が起きているのかも含めて、全部探る」
桃十郎が口の端を吊り上げる。
「面白くなってきた、って言いたいとこだけど……」
彼の視線は冷たい。
「どうやら、本気でヤバそうだな」
サブロウは、ほんのわずかに目を細めた。
「……ああ」
嵐の前触れのような、不気味な静けさがあった。
今のこの荒野の空気そのものが、“これから先はもう後戻りできない”と告げているようだった。
レジスタンス二十名は、無言のまま再び歩き出す。
北の町ホクト。
特秀。
解放軍。
桃人同士の殺し合い。
すべてが、まだ見えない糸で繋がっている。
その中心にある“何か”へ向かって、彼らは確実に近づいていた。




