【第5話】鬼ヶ島
灰色の霧を割るように、小さな手漕ぎ舟が静かに島の岸辺へと近づいていった。
その舟の上、モーモー太郎は櫂を置き、潮風に濡れた鼻面を高く掲げる。
視線の先には、黒々とした岩場。
波は砕け、白く泡立ち、太古の怒りをそのまま地に叩きつけているかのようだった。
「……ここが、鬼ヶ島」
低く、震えるような声が漏れた。
だがそれは恐れからではない。
この地に足を踏み入れる者としての、覚悟の音だった。
船を降りると、焼け焦げたような匂いが鼻を突いた。
一歩、砂を踏むたびに、ザクッと音が立つ。
固く締まった地面。灼けた礫。
足元に伝わる熱に、皮膚がじりじりと焼ける感覚すらある。
モーモー太郎は愕然とした。
眼前の光景――
島の至るところで業火が立ち昇り、空へ向かって黒煙がうねっていた。
地面は割れ、そこから赤黒く煮えたぎる溶岩があふれ、血のようにゆっくりと流れ続けている。
「……まるで、地獄だ」
吐息が熱に溶け、喉の奥が焼ける。
恐怖が胸を締めつけた。
(僕は……怖いのか?)
否――
(いや、違う。ここに来ると決めたのは、他の誰でもない……僕自身だ!)
自らを奮い立たせるように、拳を握りしめる。
足が震えていた。
だが、その足を――前へと、無理やり踏み出した。
一歩、また一歩。
止まれば、二度と進めなくなる。
だから進む。
「行くぞ……!」
風が吠える中、彼は炎の揺らめく大地を、鬼の元へと向かって歩き出した。
⸻
歩き続けて、どれほど経っただろうか。
灼熱の岩場を抜け、モーモー太郎は、ひとつの洞窟の前にたどり着いた。
それは、まるで地の底から口を開けた魔物のようだった。
入り口の岩肌は裂け、鋭い爪で抉られたかのような無数の傷が走っている。
洞の奥からは、湿った風とともに、どこか嗄れた呻き声のような音が漂ってくる。
「……ここだ。間違いない」
鬼の棲家。
地の底から響くような空気の重さに、思わず足がすくむ。
だが彼は、再び自分を叱咤するように目を見開き、洞窟の闇へと身を滑り込ませた。
内部は、ほのかなたいまつの光で照らされていた。
その炎は赤黒く揺れ、まるで血と煤を混ぜたような色で、壁面に異形の影を描いていた。
歩を進めるごとに、空気は重くなり、温度は上がり、胸に鉛のような圧迫がかかっていく。
そして――
最奥へとたどり着いた時。
その“存在”が、闇の中に、いた。
⸻
「……は、はぁ……」
息が荒い。
背筋が凍る。
それでも、彼はその場から目を逸らさなかった。
鬼――
それは、想像を遥かに凌駕していた。
五メートルを超える巨躯。
全身を覆う赤黒い皮膚は、まるで鉄を打ち鍛えたような鈍い光を放ち、
筋肉は岩のように盛り上がり、動くたびに地鳴りを伴っていた。
黄金色の双眸が、炎の中に怪しく光る。
鼻息ひとつで、空気が震え、壁の火が揺れる。
あまりの威圧感に、モーモー太郎の体が石のように固まった。
「お、お前を……退治しに、来た……!」
震える声が、ようやくの思いで喉から搾り出された。
鬼の視線がゆっくりと動く。
「……あ”?」
低く、響くような声が洞窟を満たした。
ズン……ズン……!
鬼が歩を進めるたび、地が鳴る。天井が揺れる。
「ガハハハハ! 何だお前は!? 牛か!? 震えて立てもしないではないか!」
その笑い声は、地の底から響く雷鳴のようだった。
だが、モーモー太郎の眼が変わった。
震えを怒りで打ち消すように、彼は吠えた。
「うおおおおお!! 僕はここで、終わらないッ!!」
その咆哮とともに、背負っていた縄が解かれる。
――犬!
――猿!
――キジ!
だが、次の瞬間。
「ピューーーーーーッ!!!!」
三匹は迷うことなく、洞窟の入り口へと全力で逃げ出していった。
「…………」
「…………( ͡° ͜ʖ ͡°)」
モーモー太郎は静かに目を閉じた。
(……最初から、あいつらには期待していなかったさ)
ひとつ深呼吸をして、目を見開いた。
「ならば僕がやる! ひとりでも、鬼を倒す!」
再び突進。
鬼が吠え、モーモー太郎が跳ぶ。
「これが僕の――“蹴り”だァ!!」
だが。
――その蹴りは、後ろ足だ。
――鬼は、前から来る。
「……やばい!!前は…」
モーモー太郎が体勢を立て直す間もなく、
「ガシッ!!」
鬼の巨大な腕が、彼の体を掴み取った。
「ぬう! 放せ! 正々堂々、勝負しろ!!」
必死に叫ぶ。
だが、鬼は高らかに笑った。
「ガハハハハ!!」
そして――
「ブンッ!!!」
モーモー太郎の体が宙を舞う。
「うわああああぁぁあっ!!!」
岩場へと叩きつけられる。
爆発のような衝撃。
視界が白く霞み、全身を激痛が駆け抜けた。
……何も、動かない。
……何も、聞こえない。
力尽きた体が、黒く焦げた大地に倒れ伏す。
意識が、遠のく。
――敗北。
それは、決して認めたくはない現実。
しかし、今この瞬間。
モーモー太郎は、鬼の圧倒的な力の前に、完膚なきまでに敗れ去ったのだった。
鬼は、あまりにも強大だった。