【第45話】再び亡霊となる 〜ヘンリー過去編〜
「今日からお前には、ここで生きてもらう」
ネクターは無造作にそう言うと、担いでいたヘンリーの身体を床へ投げ捨てるように放った。
鈍い音が、冷えた石壁に反響する。
ヘンリーは受け身を取ることもできず、血の滲む両足を引きずったまま、湿った床に転がった。
痛みはあった。
だがそれすら、どこか遠いもののように感じられた。
――そこは王宮の外れ、鬱蒼とした林に隠れるように建つ古びた離宮だった。
幾十年ものあいだ放置されてきたその建物は、もはや“王家の離宮”などという美しい響きに似合わぬ有り様を晒していた。
天井はところどころ崩れ、梁は黒ずみ、石壁には蔦が絡みついている。
窓は割れ、風が吹き抜けるたび、どこからともなく軋む音が響いた。
湿気に腐った木材と、長く閉ざされた場所特有のカビの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
人の住む場所ではない。
それはむしろ、忘れられた死者を閉じ込めるための箱のようだった。
この離宮が人々に避けられているのには、理由があった。
かつてここには、禁忌を犯した研究者が封じられ、投獄されていた場所。
罪名は国家への反逆。
研究資料はすべて処分された。
記録も焼かれた。
名も歴史も、王家によって“なかったこと”にされた。
だが、消せなかったものがある。
この建物そのものに染みついた、得体の知れぬ“気配”だ。
石壁の奥に残る呻き。
夜ごとどこかで軋む床板。
語る者はいなくなっても、この場所だけは、かつてここに閉じ込められたものの絶望を忘れていない。
「ここは誰も来ねぇ」
ネクターは鼻で笑った。
「あんたはこのカビ臭ぇ牢みてぇな場所で、腐るまで独りきりってわけだ。
反逆者のくせに、屋根と壁があるだけありがたく思え」
床に伏したままのヘンリーは、何も応えなかった。
返す言葉がないのではない。
言葉そのものが、もう彼の中から抜け落ちていた。
「……ちっ。気味の悪い奴め」
ネクターは吐き捨てるように言う。
「それとな、勝手にくたばるのも許されねぇ。首でも吊ろうもんなら、見張りがすぐ止めにくるぜ。
刃物だ? 無駄無駄。死ぬ自由すら、あんたにはもうねぇんだよ」
それだけ言い残すと、ネクターは離宮の重たい扉を閉じて姿を消した。
ギィ……と鈍い音が、長く尾を引いて残る。
やがて、再び静寂が戻った。
ただ、薄暗く冷たい空間だけが、ヘンリーの身体を包んでいた。
そのまま、彼は何も言わず、何も感じず、ただそこに在った。
――まるで、“亡霊”のように。
_____
それから、どれほど時が経ったのか。
窓のない部屋では、昼も夜も曖昧だった。
差し込む光の角度もなければ、空の色も見えない。
時間というものが、音もなく溶けていく。
痛みだけが、かろうじて現実をつなぎとめていた。
足の傷は熱を持ち、脈打つたびに鈍い痛みが走る。
だが、その痛みも、アンのいない現実に比べれば、あまりに小さかった。
アンは死んだ。
その事実だけが、何度も何度も胸の中で反響する。
思い出すたびに喉が締まり、息ができなくなる。
それでも涙は不思議なほど出なかった。
涙すら、すでに枯れてしまったかのようだった。
ジョージも死んだ。
レジスタンスも、きっと壊滅した。
桃九郎がどうなったのかも分からない。
何もかも、闇の向こうへ消えた。
そして自分だけが、生かされている。
それが罰なのだと、ホレスは言った。
生きる罰。
顔としての王。
悪意を育てるための肥料。
その言葉の一つひとつが、今なお心の奥に刺さっていた。
ヘンリーは、じっと天井を見つめた。
崩れた梁の隙間に、黒い染みが見える。
それを見ているうちに、自分の中身までもが、あの黒ずんだ染みと同じように、ゆっくり腐っていくような錯覚に襲われた。
――何も残っていない。
いや、残っているものがあるとするなら、それは喪失だけだった。
きぃ、と金属の軋む音が、静寂を引き裂いた。
湿った石床を踏みしめる足音が、ゆっくりと近づいてくる。
ヘンリーは目を向けなかった。
ネクターか、別の見張りか。
いずれにせよ、どうでもよかった。
だが、その足音はどこか違っていた。
無機質な監視者のそれではなく、躊躇いと緊張を含んだ、人の足音だった。
「……あなたが、ヘンリー王ですか?」
姿を現したのは、若い青年だった。
王政軍の制服を纏っている。
まだ年若く、声にも若さが残っている。
だが、その眼差しには、ただの兵士にはない、揺るぎない意志が宿っていた。
「見張りとして、派遣されました」
ヘンリーは答えなかった。
ただ虚ろな目で、じっと青年を見つめる。
感情の欠片も見えない、魂を喪ったような眼差し。
その視線に一瞬たじろぎながらも、青年は口を開く。
そして、ほんのわずかに周囲をうかがったあと、声を潜めた。
「……私は、王政軍に潜り込んでいる者です」
さらに一歩近づく。
「レジスタンスの一員です」
その言葉に、ようやくヘンリーの唇が動いた。
「……レジスタンス……」
掠れた、かすかな声だった。
それは問いではなく、死者の名を呼ぶような響きだった。
青年は力強く頷く。
「王宮内には、まだ同志が残っています。
私たちは、まだ……終わっていません」
ヘンリーはうっすらと笑った。
だが、それは希望ではなく、諦めに染まった色のない微笑だった。
「でも……」
目を伏せる。
「私の中では、もう……すべて終わったんだ」
声は静かだった。
静かすぎて、かえって痛々しい。
「アンも……レジスタンスも……もう、何もかも……」
青年は即座に首を振った。
「終わってなどいません」
その否定は、若く、青く、しかし真っ直ぐだった。
「アン様の想いは、あなたに託された。
桃九郎殿も、各地で動いています。
立ち上がる者は、まだいるんです!」
ヘンリーは目を伏せ、かすかに息を漏らす。
「……君は、強いな」
その言葉には羨望もあった。
そして、もうそんなふうにはなれないという、自分への諦めも。
「でも……私はもう、壊れてしまったんだ」
ぽつりと、独白のように続ける。
「心が……燃え尽きて、何も残っていない」
アンの顔が浮かぶ。
ジョージの最後の言葉が蘇る。
ホレスの笑いが耳に残る。
それらすべてが、灰のように心を覆っていた。
青年は言葉を失いかけながらも、まっすぐに声を重ねる。
「それでも、あなたは生きている」
強い声だった。
「生きている限り、希望は繋がっていきます」
その言葉に、ヘンリーの瞳がわずかに揺れた。
希望。
その言葉は、いまの彼にはあまりにも遠い。
けれど、完全に届かないわけではなかった。
そのことが、逆に苦しかった。
「……」
ヘンリーは何も返せない。
青年はそれでも、言葉を重ねた。
「私なりに調べました。危険を承知で……ホレスの計画――“桃人”の繁殖です」
その一言に、ヘンリーの呼吸が浅くなる。
「最初に生まれた“第一号”、ネクター。年齢は十五。
つまり、今の桃人はまだ未成熟。
計画の完成には、まだ時間がかかる」
青年は拳を握る。
「だからこそホレスは“今”、あなたを生かしている。
時間を稼ぐために。操り人形として」
「……時間……か」
ヘンリーは、目の焦点をどこにも合わせず呟いた。
時間を稼ぐ。
それはつまり、ホレスの計画がまだ終わっていないということだ。
なのに、自分はここで朽ちることしかできない。
「……君たちは、それでも戦い続けるつもりか?」
問いかけというより、確かめるための言葉だった。
自分にはもうないものを、目の前の青年が本当に持っているのか確かめるように。
「当然です」
青年は一歩も引かずに答えた。
「勝つその日まで、諦めません」
その眼差しには、確かな炎があった。
若く、未熟で、危ういかもしれない。
だが、それでも消えていない火だった。
「どうか……あなたも、その時まで、“心の火”を消さないでください」
「……心の、火……」
ヘンリーはその言葉を繰り返した。
アンも似たようなことを言っていた気がする。
光。
願い。
繋ぐこと。
あの時は、その意味を受け止めきれなかった。
だが今、その言葉は、灰に埋もれた胸の奥を、かすかに掻き回した。
ほんの一瞬だけ、瞳に微かな光が宿る。
けれどそれは、すぐに陰った。
あまりにも失ったものが大きすぎた。
あまりにも悔恨が重すぎた。
燃え尽きた心には、まだ“火”という言葉すら痛い。
ヘンリーは再び口を閉ざした。
青年も、それ以上は無理に言葉を重ねなかった。
ただしばらく、そこに立っていた。
そして――
この日、見張りとして現れた青年が、その後どうなったのかを知る者は誰もいなかった。
彼の名を知る者も。
その声を覚えている者も。
王宮の記録にも、痕跡ひとつ残っていない。
まるで――
何者かの意志によって、最初から“存在しなかった”かのように。
_____
それから、長い時が流れた。
王は語らず、扉は二度と開かれなかった。
誰も来ない。
誰も呼ばない。
食事は黙って置かれ、傷の手当てだけが最低限施され、あとは再び沈黙が満ちる。
離宮の中で、時間だけが腐っていった。
レジスタンスの名を口にする者も、やがて一人、また一人と姿を消していった。
外の世界で何が起きているのか、もうヘンリーには分からない。
希望は囁きとなり、囁きは沈黙へと変わり――
やがて世界は、静かにホレスの影に塗り潰されていった。
抗う声も。
叫びも。
祈りすらも。
風に消えた。
そして王は、闇の底で、なお生きていた。
ただ一人、何も持たず。
すべてを喪い、すべてを抱えて。
――亡霊として。




