【第4話】港町
遥かなる山を越え、谷を渡り――
ついに、モーモー太郎は港町の門をくぐった。
目の前に広がるのは、人と欲望の渦。
石畳の大通りには、商人たちの声が飛び交い、
馬車の車輪が軋み、
行き交う人波は途切れることなくうねり続けていた。
「安いぞ! 今朝獲れた魚だ!」
「塩だ! 東の鉱山から仕入れた塩だ!」
香ばしい焼き魚の匂いが風に混じり、
油に弾ける音と、遠く波止場から鳴る錆びた鐘の響きが、雑踏に交じり合う。
――その熱に満ちた景色の向こう。
灰色の霧が海の地平線に広がり、
その奥に、ぼんやりと浮かぶ影があった。
「……あれが、鬼ヶ島か」
モーモー太郎は足を止めた。
拳を固く握る。
潮風が頬を撫で、胸の奥で鼓動が強まっていく。
「ここからが……本当の始まりだ」
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情報を集めるため、モーモー太郎は露店の商人に声をかけた。
「すみません!」
背後から声をかけられた男は、のんびりと振り返り――次の瞬間、悲鳴をあげた。
「う、うわぁっ!? 牛が……喋った……!?」
ドサッ。
腰を抜かし、その場に尻もちをつく。
周囲の人々がざわめき、
視線が一点に集まった。
驚愕。恐怖。好奇心。
そのすべてがモーモー太郎に降り注ぐ。
彼は慌てず、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。
訳あって……僕は人の言葉を話せるのです」
商人は口をぱくぱくさせ、しばらく声が出なかった。
やがて、搾り出すように問いを返す。
「……な、何の用だ?」
「鬼ヶ島へ行く方法を探しています。
もし何かご存じなら……」
その名を聞いた瞬間、男の顔から血の気が引いた。
「お、おい……あそこに行くってのか!?
あんな死地に……」
「はい。僕は――鬼を討ちに行きます」
ざわめきが止まる。
雑踏の音さえ、遠くへ押しやられたようだった。
男は頭を抱え、呻くように言った。
「正気か……!? だが……確かに船なら行ける。港から船で一時間ほどだ。
けどな……もう何年も、あそこへ向かう船なんざ出てねぇ。理由は……分かるだろう?」
モーモー太郎は静かに頷いた。
それでも、その瞳は揺らがない。
「ご忠告、感謝します。……でも、行かなくてはならないんです」
一礼し、波止場へ向かって歩き出した。
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港町の端。
広がる海に、モーモー太郎は思わず息を呑んだ。
果てしなく続く青。
太陽を受けて光る波。
寄せては返す白波が、岸を洗う音。
潮の匂いが濃く、
風が髪を、耳を、蹄の先までも撫で抜ける。
「……これが、海……」
胸の奥が震える。
けれど、見惚れる余裕はなかった。
――その先にあるのは、鬼ヶ島。
霧に覆われた灰色の影が、静かに彼を待っている。
⸻
船着き場は喧噪の坩堝だった。
漁師が網を引き上げ、
船乗りたちが怒鳴り合い、
木箱が積まれ、縄が引き締まり、
潮風に混じって汗の匂いが漂う。
その中でモーモー太郎は、一人の若い女性に声をかけた。
「すみません! 鬼ヶ島へ行きたいのですが!」
振り返った彼女は一瞬、息を呑んだ。
「……牛? それも……喋ってる……?」
だが驚きは一瞬で消え、
真剣な眼差しが返ってくる。
「……何をしに、鬼ヶ島へ?」
「鬼を退治しに行きます」
その答えに、彼女の目が鋭く細まった。
数秒の沈黙。
「……申し訳ないけど、船は出せない」
「どうしてですか?」
「もし鬼が船に乗って戻ってきたら? 港は終わりよ」
現実的すぎる理由だった。
彼女の声には恐れだけでなく、町を守ろうとする強い意志があった。
モーモー太郎は苦い息をつく。
「……他に、方法は?」
女性はため息をつき、港の端を指差した。
「あそこに古い手漕ぎ舟がある。誰も使ってない。
本当に行くなら、それを使いなさい」
「ありがとうございます」
「でも……」
彼女はまっすぐに彼を見た。
「鬼ヶ島に行くってことは、命を捨てるってこと」
その言葉は鋭い刃のように胸を刺した。
けれど、モーモー太郎は首を横に振った。
「……それでも、行きます」
彼女は黙り、やがて小さく頷いた。
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港の端。
錆びた鎖に繋がれた小舟が、潮に揺れていた。
木は古び、櫂は傷だらけ。
だが、その舟に迷わず乗り込む。
蹄で櫂を掴み、海へ押し出す。
ぎい……ぎい……。
船底が波に擦れ、音を立てた。
「待っていろよ、鬼……!」
櫂を漕ぐたび、舟は霧の方へと近づいていく。
灰色の影が、じわじわと姿を大きくしていく。
かつて世界を恐怖で覆った鬼が眠る島。
誰も行きたがらず、誰も戻らなかった死地。
そこへ――ただ一頭の牛が向かっていた。
彼の名は、モーモー太郎。
その決意は、波にも風にも揺らぐことなく、
ただ鬼ヶ島を目指していた。