【第38話】桃人439号〜3話〜
計画決行の日は、次の夜に定められた。
王宮の外壁を越え、西の森へ抜けるという脱出ルート。
その一帯は人の往来が少なく、警備も比較的緩い。だが、それでも見つかれば――即刻処刑は免れない。
逃げ道は一つ。失敗は、即ち死を意味した。
三人はその覚悟を、固く胸に刻んでいた。
――そして、その日。
昼下がりのことだった。
マルは王宮の奥まった廊下で人々の会話に耳を傾けていた。
「ねぇ、昨日まであの子見かけてた? あの給仕の子よ……」
「えぇ、桃人の誰かと、妙に親しげに話してたって話よ。気づいたら姿が見えないの。変だと思わない?」
「馬鹿ね……あんた、それホレス様に気づかれたんでしょ。もういないのよ、あの子。消されたに決まってるわ」
――ズキン。
マルの胸に、鋭い痛みが走った。
(……まさか……ヨサクが話していた、あの給仕……)
血の気が引いた。
軽い眩暈すら感じながら、マルはその場から足早に立ち去る。
(あの給仕が……消された……? なら、今日を逃したら……!)
不吉な未来が脳裏をよぎる。
今夜、失敗すれば――
俺たちの“明日”は、もう永遠に来ない。
マルは焦る気持ちを必死に抑えながら、自室へと駆け戻った。
ドアを開けた瞬間、ヨサクとハチが顔を上げた。
マルの険しい顔を見て、二人は何かを察した。
「……今夜が、“その時”だ」
マルの声は、静かだったが、確かな決意に満ちていた。
_____
深い夜。
空は分厚い雲に覆われ、月も星も息を潜めていた。
世界が眠るその隙を縫い、三人の若き桃人たちは、王宮の闇を裂くように走っていた。
――草を踏む音さえ、命取りになる。
息を潜め、鼓動を押し殺しながら進む三つの影。
「見ろ、あの塀の向こうが森だ……!」
先頭を走るヨサクが低く指をさす。
そこは自由への境界線。あと少しで、この世界から抜け出せる。
「なんだよ、思ったより楽勝じゃねぇか!」
ハチが息を弾ませ、わずかに笑った。
その軽口に、緊張がほんの少しだけ和らいだ――その刹那。
「……あそこに、見回りがいる。注意しろ」
マルの低い声が、闇に溶けた。
暗がりの先、屈強な桃人が立っている。
その気配だけで、空気が重くなる。
――明らかに格が違う。彼ら“欠陥品”では到底敵わない。
影のように走る三人。
心臓が爆ぜるほど鳴るのを必死で押し殺しながら、ようやく塀の下へとたどり着いた。
「着いたぞ。ハチ、頼む!」
ヨサクはハチの肩を踏み台にし、塀をよじ登った。冷たい石の感触を握りしめ、上から手を差し伸べる。
「よし、さあ……!」
その時だった――
「ぐふっ……がはっあぁ……!」
マルの喉が裂けるような悲鳴。
見ると、口から泡混じりの黒い血が溢れ出していた。
「マル!? おい、マル!!」
地に崩れ落ち、体をのたうたせる。
苦痛に歪む顔。四肢は痙攣し、爪が土を掻く。
――欠陥品の性。
それが、今この瞬間に牙を剥いた。
「くそっ……マルッ!」
ハチが駆け寄り、必死に体を支える。だがマルの皮膚は冷たく、命の光は消えかけていた。
「……あ、あぁ……あたまが……割れる……ッ!」
マルのもがく音が、無情にも静寂を破ってしまった。
「……おい、そこで何をしている!!」
鋭い怒声。見回りの桃人が、闇の向こうから歩み出てくる。
「くそっ……!」
ヨサクが塀の上から叫ぶ。
「早く!!二人とも早く来いッ!!」
「うぅ……もう……無理だ……」
マルの声は弱々しかった。呼吸は浅く、目には力がない。
「諦めるな!マル、俺の手を取れっ!!」
塀の上から必死に手を伸ばすヨサク。
「……ハチ、お前も…行け…俺はいい」
「バカ言ってんじゃねぇ!! 置いて行けるかよ!!」
ハチの怒鳴り声に涙が滲む。
だが、その時には――
もう、遅かった。
見回りの桃人が、彼らの前に立ちはだかっていた。
圧倒的な威圧感。気配だけで膝が震える。
「脱走か。……くだらねぇ。欠陥品風情が、何を夢見てやがる」
明らかに階級の違う桃人。見下すように彼らを見据える。
「ヨサク、逃げろ……!」
ハチが前へ出て拳を構えた。
「一人で行けるわけねぇだろ!!」
ヨサクが吠える。その声には涙と怒り、そして祈りすら混じっていた。
「さぁ貴様ら。"脱走には厳しく"と言われている。準備はいいか?」
冷笑を浮かべ、見回りの桃人がじりじりと間合いを詰めてくる。
その瞬間、ハチが吠えた。
「うおおおおお!!」
まるで炎のような咆哮。怒りと覚悟のすべてを拳に込め、夜の闇を切り裂くように突進した――。
だが――
パシッ
乾いた、あまりにも軽い音。
見回りは片手で拳を受け止め、鼻で笑った。
「笑わせんな……格が違ぇんだよ、クズ」
地面に捨てられるように長槍が放られ、次の瞬間――
バキッ!!
骨が砕ける、生々しい音。
「――ッ!」
ハチの首があり得ない方向に折れ曲がり、ドサリと音を立てて倒れ込んだ。
目を見開いたまま、すでに息はなかった。
「あぁ……また殺しちまった。ま、いいか。どうせただの欠陥だ」
「うわああああああああ!!!」
怒りに我を忘れたヨサクは、塀の上から飛び降りようと身を乗り出した――
その瞬間。
ドンッ!!
鈍い衝撃が腹にめり込んだ。
「ぐっ……!?」
見下ろすと、槍の“柄”が腹に突き刺さっていた。
――刃ではない。
それを握っていたのは、マル。
立っているのがやっとの身体で、全身を震わせながら――
「……生きろ……ヨサク……!」
力任せに、マルはその柄でヨサクを塀の外へと突き飛ばした。
「マル!? おい、何を――!」
叫ぶ間もなく、ヨサクの身体は空中に投げ出され、そのまま塀の外、森の地面に転がり落ちた。
ドサッ!
乾いた音とともに地面を滑る。
「――っ!!」
ヨサクは、倒れ伏したまま塀を見上げた。
「マル!! なんで!!!」
だが返事はない。
直後――
ドスッ!!
塀の向こう。重く、濁った音。
それが、彼の“最期”だった。
「くそっ……くそっ……!!」
涙で視界が滲む。足元がふらつく。それでも――
「うわああああああああ!!!!」
森の闇へ、ヨサクは走り出した。走って、走って、走り続けた。
もう、後ろは振り返らなかった。
――こうして桃人439号、“ヨサク”は王宮から逃げ延びた。
その日を境に、彼の消息を知る者は誰もいない。




