【第35話】人工桃
――人工桃の木。
それは、ホレスが長年の執念と狂気をもって作り上げた、神の領域への冒涜だった。
オリジナルの“桃の木”が十五年に一度、神意に導かれるかのように桃を産み落とすのに対し、ホレスが複製した“偽りの木”は、不確定で不安定な代物だった。
ある木は一年足らずで桃を実らせるかと思えば、別の木は何年経っても一度も実をつけない。
制御不能な周期。
まるで“意志”を持つかのように不規則に成長し、成熟の速度も、姿かたちも、どれ一つとして同じではない。
まさに、“命”が人の手によって紡がれることへの拒絶反応のようだった。
人工桃の木は黙して語らぬが――その不気味なまでのばらつきは、まるで「これ以上踏み込むな」と警告を発しているかのようだった。
命を創るという行為は、神の領域に足を踏み入れること。
そして、それは明確に――“倫理”という境界線を踏み越えていた。
――そうして生まれた者たち。
ホレスは彼らを《桃人》と名付けた。
人間を超えた力を持ちながら、人間ではない者たち。
その数、約五百体。
だが、すべてが成功例ではなかった。
不完全な木から生まれた存在に、完全などあるはずもなかったのだ。
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【ランク制度】――ホレスが導入した、桃人を管理するための“選別”の基準。
◆特秀(現在5体)
稀に誕生する、オリジナルに最も近い“奇跡の個体”。
高度な知性、極めて強靭な肉体、そして影力の操作を可能とする者たち。
その存在は“完璧”に近く、ホレスから特別に名前を与えられる。
名を持つ者こそ、ホレスの“理想の民”である。
◆通常桃人(約400体)
知能と肉体を持ち、一般兵士を遥かに凌ぐ戦闘能力を備えた実戦部隊。
一体で十人分の力を持つとも言われ、その忠誠心は絶対。
感情を抑制され、命令に従う兵器として仕立てられていた。
◆欠陥品(約100体)
“欠陥品”――いわゆる失敗作。
不安定な精神、崩れた肉体、未成熟な知能。
生まれてすぐに死ぬ者、発狂する者、反抗心を持つ者――
桃人の間でさえ、欠陥品の彼らに人権など存在しなかった。
生まれながらにして選別され、見下され、価値を与えられぬまま生きることを強いられていた。
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桃人個人の名称――
ホレスにとって、〈名前〉とは――
力ある者にのみ与えられる、選ばれし証。
その響きは、誇りであり、称号であり、絶対的な序列の象徴だった。
一方で、通常の桃人、そして“欠陥品”と呼ばれる者たちには、名など存在しない。
彼らに与えられるのは、ただ一つ。生まれた順に刻まれる“番号”のみ。
それが、彼らに許された唯一の“識別”だった。
それはまるで、商品に貼られた製造番号のように――
彼にとって弱者は、ただ強者を引き立たせるための背景でしかなかった。
踏みつけられ、捨てられ、使い潰されるために生まれた“素材”。
この冷酷な価値観こそが、ホレスの思想の根幹であり――
番号による分類は、その歪んだ哲学が制度として結晶したものだった。
「人工桃人、○号」
それが彼らの“名前”
真世界における彼らの“価値”の全てだった。
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こうして、ホレスは自らの“桃人帝国”を築き上げた。
それは、桃人同士でさえ“優劣”と“淘汰”のシステムに組み込まれた、徹底した優生思想の世界だった。
この人工生命たちは、生まれた瞬間から“愛国心”と“忠誠”を植え付けられ、感情すら選別された。
彼らは人間を“劣等種”とみなすよう教えられた。
――ホレスの夢想する“真世界”。
そこでは力こそが正義であり、弱き者は生きる価値すらない。
血も涙もない桃の民が、静かに、だが確実にその数を増やしていく。
桃の木の下、神の名を騙った男の理想郷は、いま静かに世界を飲み込み始めていた。
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桃暦135年ー初めての人工桃人が生まれた。
人工桃人・第1号――ネクター。
彼は、ホレスの手によって生み出された、最初の“桃人”だった。
その存在は、まさに桃の木の複製という禁忌の実験が、初めて形を成した証。
ホレスにとって、ネクターは希望の象徴であり、創造の原点でもあった。
実際、彼は大切に育てられた。
ホレスは彼に名前を与え、語りかけ、教え、導いた。
まるで我が子のように――いや、我が子以上の執着で。
なぜなら、2号以降の桃人は、失敗の連続だったからだ。
生まれてすぐに絶命する者。
異常な狂気を宿し、手に負えず暴れ出す者。
それに続く者たちは、数字で呼ばれるだけの存在だった。
“名”すら与えられないまま、“その他”として扱われていった。
その中でネクターだけは別格だった。
名前があり、居場所があり、ホレスの傍にいるという“特別”があった。
ネクターは喜んだ。
ホレスの視線が、自分だけを見ている気がしていた。
彼の声、言葉、微笑み――それら全てが、ネクターにとって“家族”のようだった。
だが、その“幸せ”は長くは続かなかった。
あの日――ネクターが6歳になった日。
ホレスは異様なほど興奮していた。
抱え上げた2体の新生児を見つめ、その目は獣のように輝いていた。
「見ろ、こいつらを!12号と13号……こやつらは違う。
生まれながらにして“影力”を持っている!これは傑作だ、完璧だ!!」
ホレスの声が震えていた。
その目に映っているのは、ネクターではない。
その隣で、ネクターは静かに立っていた。
拳を握りしめながら――ただ、見つめていた。
「名前を授けよう。これほどの存在に“番号”など相応しくない。
これからは、こいつらの様な者に階級を与え、“特秀”とする!」
ネクターは、胸の奥が焼け付くような痛みに襲われた。
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「……ホレス様。ちなみに、僕は……?」
勇気を振り絞り、幼いネクターは問うた。
その声は微かに震えながらも、心の奥底で願っていた。
どうか、自分も“特秀”として認めてほしい――そう願っていた。
しかし。
ホレスは一瞬、無言で彼を見下ろした。
その瞳は、氷のように冷たい。まるで心をも凍らせるような視線だった。
「……チッ」
低く、苛立ちを吐き捨てるような舌打ちが空気を裂く。
「え……?」
ネクターは言葉を失う。
そして次の瞬間、ホレスの体から、じわりと黒い影が滲み出した。
「お前……今、私が喜んでいるのが見えなかったのか?」
声は静かだったが、内に込められた怒気は、空気を振るわせるほどだった。
「も、申し訳……ございません……」
幼いネクターの目からは涙が溢れ、恐怖で膝が震えた。
背中から流れる汗は止まらず、まるで命が刃の上に乗っているかのようだった。
「よく聞け、ネクター。お前はな……“最初”に生まれただけの存在だ」
その言葉は、刃物のように突き刺さる。
「勘違いするな。今この時を持ってお前は“特別”では無くなった。
……その名前すら、剥奪して“1号”に戻してやってもいいんだぞ?」
その冷酷な宣告に、ネクターの心の奥で何かが静かに崩れていった。
「……いえ。申し訳ございません。名前を頂けただけで、十分でございます……」
ネクターは、唇を噛み締めながら頭を垂れた。
心の奥で、何かが壊れていく音を聞きながら――
それ以来、ネクターは自分の感情を封じた。
ホレスの前では、喜びも、悲しみも、羨望も、怒りも、すべてを抑え込んだ。
ホレスへの忠誠心だけを残して。
(私はホレス様に仕える道具。それ以上でも、それ以下でもない――)
そう自らに言い聞かせ、ただ“従順な兵器”として生きる道を選んだのだった。