【第2話】決意
夕暮れの空が、まるで燃え尽きるように朱に染まり始めていた。
金色に染まる稲穂が風に揺れ、さわさわと波のような音を立てる。
その風景の中で、ひとりの牛が、静かに腰を下ろしていた。
白黒の斑模様のその牛――モーモー太郎は、いつもの快活さを抑えた神妙な面持ちで、囲炉裏を前に座る老人と老女を見つめていた。
「お爺様、お婆様。……お話があります」
静かにそう言ったその声には、覚悟の色があった。
老人は湯呑を静かに置いた。節くれだった手が、湯気を包み込むように止まる。
彼の目が細まり、孫の姿をじっと見つめる。
傍らでは、お婆さんが針仕事の手を止めて、にこやかに微笑んでいた。
「どうしたんじゃ、モーモー太郎」
その声は穏やかだった。
だが、次に口を開いた牛の言葉は、彼らの心に静かな衝撃をもたらした。
「僕は……今年で十五になります。そして――やるべきことを見つけました」
「やるべきこと……?」
「はい。――鬼退治です」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
戸外の風が止み、虫の声が遠ざかるように感じられる。
お婆さんの手が、わずかに震えた。
沈黙が、囲炉裏を囲む三人の間に、そっと降り立つ。
モーモー太郎は目を逸らさなかった。
その瞳には、恐れも迷いもなかった。
「驚かせてしまいましたね。……でも僕は、鬼を倒したいんです。この世界に、本当の平和をもたらすために」
⸻
鬼は、確かに存在する。
百六十四年前、世界は一度その猛威に屈した。
その時、ひとりの英雄が立ち上がり、鬼を討ち果たした――それが、伝説の始まりだった。
しかし、時は過ぎた。
百四十九年後、再びその悪夢は現実となった。
突如、空が裂けるようにして姿を現した第二の鬼。
その力は、伝説の鬼に劣らず、都市を焼き払い、村を飲み込み、平和を一瞬で粉々にした。
人々は再び恐怖に支配され、国は混乱に包まれた。
だが、人は屈しなかった。
ある組織が立ち上がり、血戦の末に鬼を無人島――後に“鬼ヶ島”と呼ばれる地へと追い詰め、封印することに成功したのだ。
――それが十五年前のことだった。
鬼は今もなお生きている。
ただ、忘れられているにすぎない。
人々は「平和」と名のつく薄氷の上で、真実から目を逸らしてきたのだ。
⸻
モーモー太郎は、まっすぐに両親代わりの二人を見つめた。
「鬼は、まだこの世界にいます。見て見ぬふりをしても……消えてくれるわけじゃない」
その言葉に、老人は静かに頷いた。
目を閉じ、ひとつ、長く息を吐く。
やがて、ゆっくりと目を開けて孫を見つめる。
「……そうか。ついに、この時が来たか」
「えっ……?」
驚くモーモー太郎を前に、老人はやわらかく笑った。
「お前のことじゃ。いずれ、そう言い出すと分かっておったわい」
「お爺さん……」
「して、モーモー太郎。お前は、その鬼に勝てるのか?」
問いは重かった。
だが、少年――いや、若き戦士の瞳は揺るがなかった。
「はい。僕はこの日のために、ずっと鍛錬を続けてきました。いまの僕の蹴りなら……岩をも砕きます」
お婆さんが、そっと目を潤ませる。
それでも口元には微笑が浮かんでいた。
「……怖くは、ないのかい?」
問う声は震えていた。
それでも、モーモー太郎は小さく首を横に振った。
「怖さはあります。でも、それ以上に……大切なものを守りたいんです」
「……大切なもの?」
「お爺さんとお婆さんが、僕に与えてくれた“幸せ”です。この平穏が、いつか鬼によって奪われるかもしれない。だから僕は、それを許せない」
しんと、風が止む。
その言葉は、部屋の中に静かに、しかし力強く響いた。
「……立派になったのう」
お爺さんは、静かに席を立った。
「よし。それなら、ワシらからも渡すものがある」
「渡すもの?」
お婆さんが頷き、戸棚の奥から巾着袋を取り出す。
それをモーモー太郎に差し出した。
「持っていきなさい。これは、きびだんごじゃ」
「きび……だんご?」
「不思議な力がある。――鬼との戦いで、命の危機に直面したとき。これを鬼の口に放り込むのじゃ」
モーモー太郎は袋を大事そうに受け取り、その中身を確かめる。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「分かりました。……必ず、鬼を倒して帰ってきます!」
「決して、無理はするんじゃないぞ」
「はい!!」
少年の声は、夕空へと響いた。
そして、モーモー太郎は歩き出した。
赤く染まった空を背に、ただ一人、鬼ヶ島を目指して――。
これが、モーモー太郎の“鬼退治”の旅の始まりだった。