【第18話】真実への航路
不安が胸の底に沈んだまま、モーモー太郎は静かに海を見つめていた。
鬼ヶ島の浜辺。
潮風は冷たく、波打ち際には白い泡が何度も砕けては消えていく。
曇った空の下、島の輪郭はなお陰鬱で、ここが“死に捨てられる場所”であったことを嫌でも思い出させた。
「モーモー太郎さん。あれが私たちの船です」
隣に立つサブロウが、沖のほうを指さした。
「……割と大きい船だな」
モーモー太郎は目を細める。
鬼ヶ島の海岸へ停泊しているその船は、一見すれば古びた漁船のようだった。
だが、よく見れば違う。
船腹は分厚く補強され、表面には目立たぬよう鉄板が打ち込まれている。
舷側の造りも深く、並の漁船よりはるかに堅牢だ。
荒波に耐えるためというより、むしろ“戦い”を意識して作られた船に見えた。
「そうですね。一応、名目上は漁船ですが……実際にはレジスタンスの船です」
サブロウは淡々とそう言いながら、船へ向かって歩き出す。
「レジスタンスは、こうして王政の目をかいくぐるために、身を隠しながら各地に分散しています」
モーモー太郎は、感心したように頷いた。
「各地に……?
ということは、レジスタンスの規模はかなりのものなのか?」
「えぇ」
サブロウは短く答える。
「現在のところ、およそ五百名ほどの戦士がいます」
「五百……!?」
モーモー太郎は、思わず目を見開いた。
単なる小規模な反乱軍だと思っていた。
港町でひそひそと噂される程度の、追い詰められた者たちの寄せ集めだと。
だが五百となれば、もはや偶然生まれた抵抗組織ではない。
明確な意志を持ち、長く準備され、積み重ねられてきた“勢力”だ。
「それだけ、この国の王政に対する不信感が根深いということです」
サブロウの言葉に、モーモー太郎は静かに息を呑んだ。
「……そうだったのか」
彼は、自分がこれまでどれほど狭い世界で生きてきたのかを痛感する。
鬼の脅威しか見ていなかった。
鬼こそが世界を脅かす唯一の悪だと思っていた。
だがその陰で、国の内部ではまったく別のかたちの苦しみが広がっていたのだ。
人々は鬼だけではなく、国そのものにも追い詰められていた。
「で、このままどこへ向かうんだ?」
モーモー太郎は、視線を船からサブロウへ戻した。
「私たちのアジトへ向かいます」
サブロウは即答した。
「モーモー太郎さんには、ぜひ私たちのボスと会っていただきたいんです」
「レジスタンスを束ねるボスか……」
モーモー太郎は興味深そうに呟く。
王政へ反旗を翻し、これほどの人数を率いている人物。
それがどんな人間なのか、想像がつかなかった。
武人のような者なのか。
策略家なのか。
あるいは、港町で見たホレスとは別のかたちの“カリスマ”を持つ人間なのか。
サブロウは微笑みながら頷いた。
「はい。私たちのボスは、心から世界の平和を願い、ずっと戦い続けてきた人です」
その声音には、揺るぎのない敬意がにじんでいた。
「必ず、モーモー太郎さんとも気が合うでしょう」
その言葉に、モーモー太郎はしばらく黙っていた。
信じていいのか。
また誰かを信じて、また裏切られるのではないか。
そんな考えが、胸の底に残っていた。
だが――
「分かった」
やがて彼は、静かに頷いた。
「話を聞かせてもらうよ」
サブロウの顔に、わずかな安堵の色が浮かぶ。
「それでは、船を出します」
甲板の上では、待機していた船員たちが機敏に動き始めていた。
帆を張る者。
錨を上げる者。
綱を解く者。
皆が無駄のない手つきで持ち場をこなしている。
この船が、何度も危険な航路を越えてきたのだと分かる動きだった。
ギシ……ギシ……
重い船体がわずかに軋み、やがて波に押されるようにゆっくりと前へ出る。
モーモー太郎は、甲板の上から静かに鬼ヶ島を振り返った。
かつての戦場。
死にかけた場所。
そして、裏切られたのち、自分が捨てられた島。
あの黒ずんだ岩と、陰の濃い浜辺が、少しずつ遠ざかっていく。
まだ心は重かった。
だが、完全には沈んでいなかった。
船が静かに波を裂き、鬼ヶ島の輪郭はやがて海霧の向こうへ溶けていった。
_____
波間に漂う船は静かに進み、夕闇がゆっくりと空を包み込んでいった。
赤く染まっていた水平線は、紫を経て、やがて群青へ変わる。
海と空の境界が曖昧になり、船だけが暗い水の上を滑っているようだった。
船内の客間には暖色の灯りがともり、窓越しに見える水平線がわずかに輝いていた。
波の音が穏やかに響き、木の壁を通して、船体を撫でる水音が低く伝わってくる。
その揺れは不思議と心地よかった。
傷だらけの体には辛いはずなのに、今はむしろ静かな揺れが神経を落ち着かせていた。
そんな静寂の中、サブロウは小さな銀のポットから紅茶をカップへ注いだ。
とぽ、とぽ、と柔らかな音。
湯気が立ち上り、ほのかに芳醇な香りが室内へ広がる。
「それでは始めますか」
彼はそう言って、カップをテーブルへ置いた。
「世界の真実について……」
モーモー太郎は、カップへ手を伸ばしながら、小さく呟く。
「これから話すことは、王政によって人々へ決して明かされることのない事実です」
サブロウの声は穏やかだったが、その奥には重さがあった。
「驚くと思いますが、最後まで聞いてください」
その真剣な眼差しに、モーモー太郎は生唾を飲み込んだ。
「……まず初めに、この世界には“桃から生まれる者”が存在します」
「なっ……!」
モーモー太郎の指先が止まる。
「ホレスの奴が言ってた……桃から生まれる……?
なんなんだそれは。伝説の救世主の話じゃないか」
「えぇ」
サブロウは静かに頷いた。
「しかし、それは単なる伝説ではなく……事実なんです」
「一体、どういう意味なんだ」
モーモー太郎の問いに、サブロウはゆっくりと語り始めた。
「信じられないかもしれませんが、聞いてください」
船の揺れに合わせるように、彼の声も静かに流れる。
「この世界には、“大いなる桃”と呼ばれる不思議な果実が存在します。
その桃の起源は不明。なぜこの世に存在するのかも分かっていません」
モーモー太郎は思わず眉を寄せる。
話として聞けば荒唐無稽だ。
だが、ホレスの影の力、ジョン・ピーチの異様な姿、自分の身に起きた変化――それらを思い返すと、頭から否定しきれない。
「ただ、一つだけ確かなことがあります」
サブロウは言葉を区切った。
「その桃の中からは、“特別な力を持った者”が生まれるということです」
「桃から人が生まれる……そんなことが本当にあるのか……」
モーモー太郎は半ば呆然と呟く。
「はい」
サブロウは揺るがない。
「そしてもう一つ。その桃は、十五年に一度、この世のどこかへ生み落とされるということです」
「待て待て! 十五年に一度!?
ってことは、何人もいるってことか!?」
「その通りです」
モーモー太郎は信じられないという表情で、拳をぎゅっと握りしめた。
「十五年に一度、世界のどこかで“その者”は生まれる。
しかし、その桃自体なぜ生まれるのか、どうして人が生まれるのか――それは未だ謎に包まれています」
「そんな……」
モーモー太郎はうつむく。
「信じがたい話だが……。僕が言えたことでもないけど……」
人の言葉を話す牛である自分が、今さら“そんなことあるはずがない”と言い切れる立場ではない。
そう思うと、苦い笑いが込み上げそうになった。
「まぁ、あなた自身も奇跡的な存在ですから、謎という意味では一緒ですね」
サブロウは少しだけ微笑んだ。
「すみません、話を戻します」
そう言うと、再び真剣な顔へ戻る。
「その“桃から生まれた者たち”には、ある共通点があります」
「共通点……?」
「えぇ。“特別な力”を持つということです」
「特別な力……」
「はい。彼らの体から溢れ出る、“影”のような力です」
「影……!!」
モーモー太郎の脳裏に、ホレスの姿がよぎる。
そして、もう一人。
桃色の牛――ジョン・ピーチ。
「ホレス……! そして……ジョン・ピーチ……」
サブロウは眉をひそめた。
「ジョン・ピーチ……?」
(やはり、サブロウも知らないのか……)
モーモー太郎の胸に、また新たな疑問が広がる。
(何なんだ、あいつは……。
桃から生まれた者とも、影の力とも関係があるのか……?)
「いや……ごめん。一旦、続きを聞かせてくれ」
胸の奥に湧き上がる疑念を押し殺しながら、モーモー太郎は話を促した。
「分かりました」
サブロウは続ける。
「その“影”の力を持つ者たちは、初代を“救世主”として、今も密かにこの世界に生まれ続けています」
「救世主……つまり、最初に鬼を討った英雄か?」
「えぇ。ですが……それ以降に生まれた者たちは、歴史の表舞台に立つことはありませんでした」
サブロウは紅茶の表面へ視線を落とす。
「表へ出れば、利用される。あるいは、消される。
王政はそうした存在を把握し、監視し、必要ならば隠してきたのです」
モーモー太郎は息を呑んだ。
「ですが、ホレスがついにその“力”を公にした今、奴は明らかに“桃の力”を利用しようとしています」
「……やつは、一体その力で何を……」
モーモー太郎は拳を軽く握りしめながら、船室の木の床を見つめた。
「にわかには信じがたい話ばかりだ……。
でも、最近の出来事と照らし合わせると、少しずつ繋がる気がする……」
目を閉じれば、ホレスの言葉が脳裏によみがえる。
桃から生まれた者。
影の力。
封印された鬼。
そして……自分。
まるで巨大な糸が絡み合うように、断片的だった情報が次第に結びつき始めていた。
「はい。モーモー太郎さんが知るべきことは、まだまだあります」
サブロウは静かに言った。
「ですが……今日のところは、この辺で」
そう言って、船室のランプを少しだけ暗くした。
灯りが落ちると、窓の向こうの夜が一層深く見えた。
海は黒く、どこまでも底知れない。
「明日にはアジトへ到着します。
続きは、ボスと直接話してください」
モーモー太郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ボスか。
ここまでの真実を知る者……一体何者なんだ」
サブロウは少しだけ微笑んだ。
そして、深く頷くと、最後の言葉を口にする。
「では、それだけお伝えしておきましょう」
一拍。
「うちのボスも――桃から生まれた者の一人です」
「……えぇ!?」
モーモー太郎の目が見開かれる。
予想外の言葉に、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
驚きと困惑と、そして――どこかで微かに燃え始める期待。
船室には静寂が訪れる。
波の音だけが、一定の調子で響いていた。
夜の海は暗く、どこまでも深く、静かだった。
その静寂の中を、船はゆっくりと進んでいく。
真実の待つ場所へ。
モーモー太郎の知らなかった世界の中心へ向かって。




