【第124話】少女と刃
モーモー太郎は走った。
全身の傷が焼けるように疼く。
「……うっ……!」
それでも足を止めるわけにはいかなかった。
マツリが飛び出したあの背中――あの眼差し――ただならぬ気配が胸を締めつけていた。
(マツリちゃん……一体どうしたっていうんだ……!)
必死に人波をかき分ける。
悲鳴と怒号が入り混じり、逃げ惑う村人たちが道を塞ぐ。
その小さな身体で人垣をすり抜けていった少女の姿は、もう見えなかった。
⸻
やがて村の入口。
そこは、地獄のような緊張に包まれていた。
「やめるんじゃ……マツリ……」
村の長老が、震える声で呟く。
彼の視線の先――
汚れた衣に身を包んだ桃人の男が、剣をぶら下げて立っていた。
獣のように濁った目。
ひび割れた唇からは、冷笑が漏れている。
その正面に――
まだ幼い少女、マツリ。
細い腕で木刀を構え、まっすぐに桃人を睨み据えていた。
村人たちは周囲を取り囲むが、誰も動けない。
恐怖が足を縫い付けていた。
「……ガキが、なんの真似だ」
桃人が低く唸る。
「私は――あんた達を許さない!」
強がる声。
だが、小さな肩は震えている。
「なんだと……? ははっ……! おい、そこの村人ども! 見物してるだけなら、このガキを攫っちまうぞ! 嫌なら金と食料を今すぐ持ってこい!」
剣先がぎらりと光る。
村人たちの顔が青ざめる。
「マツリ! 早くこっちへ来い!」
「無茶をするでない!」
必死の声。だが――
「嫌よ!!」
マツリは叫んだ。
そして次の瞬間――
カシャン……!
乾いた金属音が、空気を切り裂いた。
村人たちの目が見開かれる。
マツリが手にしていた“木刀”は、実は鞘だった。
今、その中から抜き放たれた刀身が、陽光を受けて鋭く煌めいている。
「なっ……!? 本物の刃……だと……」
ざわめきが広がる。
誰もが信じられないという顔で少女を見つめた。
細い腕に余るような刀。
だが彼女は、震えながらもそれをまっすぐ構えていた。
けれど――
カタカタ……
小さな手は震えていた。
唇も噛みしめ過ぎて血が滲んでいる。
「無理するな、小娘……震えているぞ」
桃人の嗤う声。
「うるさいッ! この村は……私が守る!
もう……もう大切なものを失いたくないんだ!!」
震えの中に宿る叫び。
その言葉に、村人たちの胸がざわめいた。
「はん……口だけは一人前か。だが剣を抜いた以上、容赦はしねえぞ!」
桃人が剣を振り上げる。
砂を蹴り、マツリへと迫る。
「やめろおおおおッ!!」
村人たちの悲鳴が、空気を裂いた。
⸻
その瞬間。
ドンッ!!!
鈍い衝撃音。
次の瞬間、桃人の身体が宙を舞い――ぐるりと激しく回転し、地に叩きつけられた。
「ぐはっ……!?」
砂煙の中に立っていたのは――モーモー太郎だった。
間一髪。
モーモー太郎の拳がマツリを救った。
「大丈夫か!? マツリちゃん!」
「な、なんてことないわ!!」
震えを隠すように声を張るマツリ。
だが頬には汗が滲み、木刀を握る手はまだ震えていた。
「皆さん!! 奴が起きないうちに縛り上げてください!」
モーモー太郎の声が響く。
だが、村人たちは一歩を踏み出せなかった。
(な、なんだあれは…!?)
目の前の存在――
立ち上がり、言葉を発する牛という異形に、畏怖と動揺を隠せなかったのだ。
(……牛が……喋っている……?)
(いや、そんなはずは……)
ざわめきが広がる。
その中で、マツリが叫んだ。
「みんな!! 説明は後! モーモー太郎の言うことを聞いて!!」
その声に押され、ようやく村人たちは縄を手に取り、倒れ伏す桃人を取り押さえた。
やがて訪れる静寂。
乱れた息遣いと、血のように赤く染まる夕暮れだけが、その場に残された。
だが、モーモー太郎の胸にはひとつの疑問が残っていた。
なぜ、まだ十にも満たぬ少女が――
あれほど恐ろしい桃人を前に、震えながらも刀を抜き放つことができたのか。
ただの勇気ではない。
ただの無謀でもない。
あの刃を振るわせた原動力は、一体どこから来るのか。
マツリの小さな背中に宿る影が、モーモー太郎の心に深く引っかかっていた。




