【第123話】カナイ村
モーモー太郎は歩いていた。
一日か、それ以上か。
時間の感覚は、痛む身体の奥でとっくに失われていた。
歩けば歩くほど、脳裏に押し寄せてくるのは、止めどない疑問。
――自分は何者なのか。
――なぜ光を操れるのか。
――ピーチジョンが握るという“答え”とは何なのか。
その思考の渦が、脚よりも重く彼を縛っていた。
(……歩き続けるしかない。だが、この心の重さは……傷よりも厄介だ)
息を吐き、顔を上げたその時だった。
遠くに――煙。
「……村?」
知らぬ村だった。
⸻
夕暮れの陽が、瓦屋根を黄金色に染めている。
小さな畑では、腰を曲げた老人が黙々と鍬を振るい、
家々の軒先からは湯気が立ちのぼり、煮物の匂いが風に漂う。
子どもたちのはしゃぐ声が、路地の隅から隅まで響いていた。
丸い石を蹴って笑い転げる者。
追いかけっこをして埃を舞い上げる者。
――この世界が、桃人に覆われつつあるなど到底信じられぬ、穏やかな光景だった。
(……ここだけ、時が止まっているようだ)
モーモー太郎は、無意識のうちに村へと足を踏み入れていた。
だが、体は限界に近い。
重くのしかかる疲労に耐えかね、石垣の影に腰を下ろす。
「ぐっ……」
脇腹に鋭い痛み。
苦痛が胸を突き、呼吸が乱れる。
その時だった。
「……牛?」
凛とした声が、背後から降ってきた。
振り返ったモーモー太郎の視線に、一人の少女が立っていた。
(女の子…)
年の頃は10にも満たないだろう。
だが、その瞳には年齢を裏切るような強い光が宿っていた。
赤みのある黒髪を肩でひとつに束ね、腰には場違いな木刀。
衣服は質素だが、立ち姿は妙に揺るぎない。
子どもの無邪気さではなく、荒波を前にしても折れぬ“意思”の匂いをまとっていた。
「……ごめんよ。突然、村にお邪魔して。少しだけ、この村で休ませてもらえないか」
「え……喋った!?」
少女の瞳が大きく見開かれる。
当たり前だ。
牛が言葉を紡ぐなど、常識のどこにも存在しない。
「あ、あぁ! 驚かせてしまったね。僕はモーモー太郎。見ての通りただの牛さ。……ちょっと話せるだけで」
「……喋る、ただの牛……?」
少女はしばらく目を瞬かせ――やがて、意外なほど冷静に肩を竦めた。
「……まぁいいわ。ここじゃなんだから。休める所、案内してあげる」
「えっ……怪しまないのかい?」
「休みたいんでしょ? なら来なさい」
その声音は、子どもとは思えぬほど強気で揺るぎなかった。
モーモー太郎は、かえって胸の奥にざらりとしたものを覚えた。
「君は……?」
「私の名前はマツリ。ここはカナイ村。――外から誰も来ない、忘れられた田舎よ」
「カナイ村……初めて聞く名だ」
「当然ね。人知れず、干渉を拒んで生きてきたの。村人だけで。外のことなんて関わらずに」
(……桃人の支配を受けていない?)
「今、そう考えたでしょ?」
「……っ!?」
「無理もない。この国のほとんどは桃人に支配されている。けど、この村は――まだ見つかってない」
「……そうだったのか。なら、ここは……平和なんだな」
「えぇ……」
そう口にしたマツリの微笑には、しかし確かなかげりがあった。
モーモー太郎は気づいた。だが、言葉を飲み込んだ。
⸻
二人はしばらく歩き、村の端にある一軒家へ辿り着く。
「ここが私の家よ。入って」
「お邪魔します……」
木造の立派な造り。
戸をくぐると、土間から漂う木の匂い。
奥には整えられた居間。壁には古びた木刀がかけられていた。
(立派な家だ…)
ソファに沈み込むと、緊張がわずかに解け、全身の力が抜ける。
「で? モーモー太郎。あなたは……何者なの?」
その問いに、心臓が跳ねた。
「僕は……」
言葉が詰まる。
胸の奥に重石があり、吐き出そうとした声を塞いでいた。
「……まぁいいわ。無理に言わなくても」
「いや……違う。僕自身が、分からないんだ」
「自分が……分からない?」
「そうだ。そのために……今、とある場所へ向かっている」
マツリはしばらく黙って見つめ――小さく肩を竦めた。
「……大変なのね。答え、見つかるといいわね」
「あぁ。ありがとう」
その時だ。
「桃人が来たぞォォ!!!」
外から、甲高い叫び声が轟いた。
「……っ!?」
モーモー太郎は立ち上がり、瞳を細めた。
(桃人……!? 残党か……!?)
「マツリちゃん、危ない。ここに――」
言いかけた時。
「桃人……」
マツリの肩が震えていた。
だがそれは恐怖ではなかった。
爪が皮膚に食い込むほど、小さな拳を握りしめ――怒りに似た熱が滲んでいた。
「マツリちゃん……?」
返事はない。
バン!!
家の扉を叩き割る勢いで、マツリは外へと飛び出した。
その背には、確かな“怒り”が燃えていた。




