【第117話】絶望の底で
「アーーーーーン!!」
ヘンリーの絶叫が王の間に木霊した。鋭く、哀しく、魂を削るような声だった。
ドシャッ――。
アンの身体が、音を立てて力なく床に崩れ落ちる。
「やめてくれ……嘘だ……頼む……!」
切り裂かれた両足では立つことすら叶わず、ヘンリーは這いずるように、血の海を引きずりながらその元へと向かった。
震える手でアンの身体を抱き上げる。彼女の胸元から溢れる赤が、彼の手の中にぬるりと広がる。
「……いやだ……目を開けてくれ……頼む……アン……!」
その声にも、返事はなかった。
ヘンリーは深く息を吸い、目を閉じた。
(落ち着け……彼女はまだ、生きている……気を失っているだけだ。大丈夫、血は止められる、何とか助けなければ……! 逃げ道は……誰か……誰か来てくれる者は……)
「おい」
その声が、思考を断ち切った。
静かで、冷たい、皮肉めいた声音。
ヘンリーが顔を上げると、そこにはホレスがいた。
まるで処刑を見物するかのような、軽蔑と愉悦の混じった笑みを浮かべ、彼はゆっくりと近づいてくる。
「ヘンリーよ……」
その声が、無慈悲に言い放つ。
「よく見ろ。死んでいる」
その一言で、時間が止まった。
――死んでいる?
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
「見ていただろう? たった今、この手で殺したんだよ。お前の目の前でな」
その瞬間、ヘンリーの意識が現実に引き戻された。
最愛の人が――もう、いない。
「……っ……」
腹の奥底から、煮えたぎるような怒りが湧き上がる。内臓を焼くような、吐き気を催す怒り。もはや理性は炎に飲み込まれていた。
「……許さない……」
噛み締めた唇が裂け、血が滴る。
目の前が赤く染まり、手に伝う温もりが、現実と幻想の境界をぼやかしていく。
「ホレスッ!! お前を殺す! 桃人とやらも、計画もすべて……絶対に許さない!!」
怒号が響く。
しかし、その怒りを前にしても、ホレスは眉一つ動かさず、薄く笑うだけだった。
彼は悠然とヘンリーの元へ歩み寄り、しゃがみこむと、髪を乱暴に掴み上げた。
「ほう……殺す? ほざけ、弱者。貴様がいくら喚こうと、願いは届かぬ。なぜなら――お前は、何も変わってなどいないからだ」
その言葉に、ヘンリーの目から涙が零れ落ちた。
怒り、悲しみ、絶望。全てが波のように押し寄せ、足を引きずり、心を引き裂いていく。
――自分は、何も守れなかった。
アンの身体を抱く両腕が、力なく落ちた。
「ふん。死にたいか? それも結構。だが……まだ死ぬことすら許されない」
ホレスが立ち上がり、冷たく告げる。
「貴様には“生きる罰”を与える。民に悪意を与える“顔”として、これからも王を演じるのだ。偽りの王よ。民が腐れば桃の木も育つ。貴様はそのための肥料だ」
「……もう……どうなっても……いい……」
「くく……それでこそ、役立つ駒というものだ」
ホレスがネクターに目配せすると、彼は無言でヘンリーを担ぎ上げる。
「連れて行け。離宮の奥深く、誰の目にも触れぬ場所に閉じ込めろ。生きてさえいればいい。反逆者の烙印を背負い、ただ朽ちていけ」
「了解しました」
ずるずると、ネクターに引きずられていくヘンリー。
その目には何も映らなかった。
「この惨状を目に焼きつけておけ、偽りの王よ! 次にこの世界を目にする時、お前は死ぬ時だ!」
ヘンリーの反応は無い。
扉の向こうへと、音もなく消えていく。
ホレスは嘲るように笑い、王の間を見渡した。
「……さあ、計画を続けよう。桃人の製造、悪意の拡散。そして私は……この国の“王”となる」
血に濡れた玉座の前で、ホレスは不敵に嗤った。
すべては、計画通り。
――こうして、ヘンリーを残し、アン・ローズブレイドは、命を散らした。




