【第116話】アンの覚悟
ヘンリーは、血に濡れた石床の上に転がっていた剣を手に取った。
重みが腕に食い込む。だが、それ以上に心にのしかかるのは、目の前の現実だった。
「アン……しっかりするんだ。私が時間を稼ぐ。そのあいだに、君は……逃げろ!」
決死の言葉に、アンの目が揺れる。
「ヘンリー……」
「いいか、命に代えてでも……君を、ここから生かしてみせる」
剣を握るヘンリーの手は、明らかに戦いに不慣れなものだった。
柄が震え、金属がぶつかるような音を立てている。
カタカタカタ……
それでも、彼は一歩も退かなかった。
「はっはっはっ!」
ホレスが乾いた笑い声を上げる。
「震えているではないか、ヘンリー。命に代えて守る? よほどその女に惚れ込んでいるようだな。いやはや……滑稽だ。実に」
「黙れ……!」
ヘンリーは唇を噛み、目を逸らさずに睨み返した。
「私はもう、お前を――許さない」
「許さない?」
ホレスの声色が、嘲笑に染まる。
「ふん、言うようになったな。だが――お前に何ができる?」
「差し違えてでも……この命と引き換えに、お前を殺す」
「ほう……恐ろしい恐ろしい。じゃあ――その意気、見せてもらおうか」
ググググ……
黒い影がホレスの足元から這い出し、まるで意思を持つ蛇のようにヘンリーへと伸びていく。
「うっ……!」
瞬く間に、黒い影がヘンリーの体を絡め取り、強く、容赦なくその身体を締め上げた。
「ぐっ……あああ……!」
「でかい口を叩くようになったな、ヘンリー」
ホレスが楽しげに歪んだ笑みを浮かべる。
「反逆者どもに感化されて、少しは気が大きくなったつもりか? だがな――思い出させてやろう」
影がさらに締め付ける。
ヘンリーの息が詰まり、膝が崩れそうになる。
「お前は“奴隷”だったのだ。何もできず、何も言えず、ただ恐怖に縋って生きていた。忘れたのか? この命も、精神も、その心の奥底まで――お前の全ては、私の掌の中なのだと」
バチバチと、空間を歪めるように影が唸る。
「う゛あああああ――っ!」
「やめて――ッ!!」
その時、アンの声が王の間に響き渡った。
涙を振り払い、よろめきながらも立ち上がる。
「ホレス、聞きなさい……!」
その瞳はまっすぐにホレスを見据えていた。
「私の命を差し出すわ。だから――ヘンリーを解放して」
「……は?」
ホレスの顔が、嘲笑に歪む。
「命を差し出す? はっ、何様のつもりだ? その命を握っているのはこの私だ。お前に選ぶ権利などない。立場をわきまえろ、下等な貴族が」
「……ええ、確かに。今の私は無力。でも――ヘンリーにはまだ“使い道”があるのでしょう?だったら、これ以上痛めつける必要はないわ。私の命で済むなら、ここで終わらせなさい」
(アン……やめろ……何を言ってるんだ……!)
ヘンリーは苦悶の表情で唇を噛む。
「……それに、ホレス」
アンの声が低く、鋭くなる。
「たとえ、私がここで終わっても。あなたの計画は、いずれ誰かに阻止されるわ。世界は……そんなに、甘くはない」
「ふん。ほざけ。弱者が世界を語るな。もうすべては私の掌の上だ」
「そう思っているのは、あなただけよ。今、世界にはレジスタンスの旗が立ち始めている。希望の灯火は確かに広がっているわ。この流れは――もう止まらない」
「希望?見ただろう。雑魚が何人束になろうと、この“桃人”一体にすら敵わん。それが現実だ」
「たとえ窮地に陥ろうと――人は、立ち上がるの。力ではなく“心”で。私は信じている。人は……希望を諦めない」
アンは一歩前へ出る。
その瞳には、静かな闘志が灯っていた。
「そして、あなたが最も恐れるもの……“光の力”。必ず、世界の危機にその者は現れる。桃の木は斬られ、世界は元の姿に戻る――私は、そう信じてる」
「クックックッ……!」
ホレスの笑い声が王の間に響く。
「光の力だと? はっはっはっ! そんなもの、150年前の迷信にすぎん! それに――あの禁書を見なければ、その力には気付くことさえできん。知識を持たぬ者が、力に目覚めるはずがなかろう」
「たとえ隠しても、真実は……必ず巡り合うの。力と使命は引き寄せ合う。あなたがいくら封じようと、運命までは封じられない!」
「運命……ね。妄想もここまで極まれば、もはや病気だな。だがいいだろう。そのときが来れば――私の手で、その“光”を闇に沈めてやる」
ホレスの目に、殺意が宿る。
「……さあ、語りは終わりだ」
ドサッ――
ホレスの手から影がほどかれ、ヘンリーの身体が床に崩れ落ちた。
「ぐっ……く……」
「ネクター」
「はい、ホレス様」
「こいつが逃げぬよう、見張っておけ。」
「承知しました」
ネクターが無表情で近づき、剣をゆっくりと構えた。
「……動くな。無理をすれば――誤って斬ってしまうかもしれない」
その声と共に、ザンッ!
ネクターの剣がヘンリーの両足を斬りつけた。
「ぐ、あああああああっ!!」
鋭い痛みが脳を突き抜け、身体が跳ね上がる。
だが、叫んでも誰も助けには来ない――この王宮には、もう味方はいないのだ。
「さぁ、これでいい。もうお前は動けない。そのまま、愛する女が死ぬ様を――最後まで見届けるといい」
「やめてくれ……頼む、ホレス……どうか……アンだけは……!」
懇願の声も届かない。
ホレスの体から、黒い影がゆらりと立ち昇る。
その魔性の力が、天井を焦がすように王の間を支配する。
「哀れだな、ヘンリー」
その声は冷酷そのものだった。
「貴様が彼女を巻き込んだのだ。お前の“罰”だよ。……わかるか? これは報いなんだ」
「……罰……?」
「そうだ。お前は私に逆らった。それがすべてだ」
ヘンリーの意識が、幼き頃の記憶に引き戻される。
黒い影。冷たい目。命の消える音。
すべてを支配するこの男に、何もかも奪われてきた。
忘れていたのではない。恐怖に、見ないようにしていたのだ。
「……私のせい……?」
ガタガタガタ……
ヘンリーの体が震える。歯が鳴る。呼吸が浅くなる。
足元に溢れ出る赤い血が、現実を刻み込む。
「ああ……ああああああ……!」
「はっはっはっ!! やはり貴様は何も変わっていなかったな、ヘンリー! 口先だけの王が、何を守れる!? やはり貴様は――無能だ!!」
そのときだった。
「ヘンリー王!!」
アンの声が、鮮烈に響いた。
その声音は――強く、揺るぎなく、優しかった。
次の瞬間、不思議とヘンリーの震えがぴたりと止まる。
「……アン……?」
「この世界の運命を――貴方に託します。私たちの“願い”を、どうか――繋いでください。貴方は、もう弱くなんかない……!」
彼女は涙を拭い、まっすぐホレスを見据えた。
「ふん、くだらんな」
ホレスが片手を掲げる。
影が蛇のように地を這い、うねる。
その先――アンへと向かって伸びていく。
「やめろ!!」
ヘンリーが叫ぶ。
「やめてくれ!!アンだけは……頼む、お願いだ……!」
アンは微笑んだ。
「……愛してる、ヘンリー」
黒い影が、一瞬にしてアンの身体を貫いた。
ズシャッ……!
「――っ!!」
血が、紅の花のように宙に舞う。
アンの身体がよろめき、ゆっくりと倒れていく。
「アンッ!!」
絶叫が、王の間を切り裂いた――