【第113話】禁書の果て、そして闇の微笑
「アン!!」
王の間の扉を勢いよく開け、ヘンリーは駆け込んだ。
振り返るアンの顔に驚きが走る。
「どうしました?そんなに……汗だくで」
彼女はすでにそこにいた。まるで、ヘンリーの来訪を予感していたかのように。
「聞いてくれ……ホレスの計画が、ようやく見えてきたかもしれない!」
「えっ……本当ですか……!?」
アンが身を乗り出す。だがその前に、とヘンリーは深く息を吸い、目を伏せた。
「でも、その前に……君に謝らなければいけないことがある」
「……?」
「私は――君に、まだ伝えていなかったことがあるんだ。この国に、代々の王にのみ伝えられる“禁書”の存在を」
「禁書……?」
「そうだ。王以外は知ってはならないとされている、国の“核心”が記された書だ。そこには、桃の木の起源、鬼、そして……この国が隠してきた“悪意”の真実が記されている」
アンの目が見開かれた。
「そんなものが……」
「最初は、君の身を案じて言えなかった。だが、ホレスの計画にこの内容が絡んでいる可能性がある以上、もう黙っていられないと思った……本当に、すまない」
「……いえ、ありがとうございます。私のことを思ってのことだったのですよね。そういうところ……本当に、貴方らしい」
優しく微笑むアンの姿に、ヘンリーの胸が締め付けられる。
「くっ……もっと早くに打ち明けていれば……それで、内容なんだが――」
その時だった。
王の間の扉が、乱暴に開かれた。
「失礼します!!」
重い足音と共に駆け込んできたのは、騎士団団長・ジョージだった。
「どうしました、ジョージ?」
アンが声をかける。
ジョージは肩で息をしながら、重々しく口を開いた。
「……ヘンリー様、アン様。落ち着いて聞いてください」
不穏な気配が、王の間に流れ込む。
「鬼が……本当に“復活”しました」
「な……何だって!?」
ヘンリーが目を見開く。
「それは……本当に間違いないのか!?」
「はい……今回は確かに“本物”です。港町にて、多数の目撃情報がありました……鬼の特徴も、かつてのものと一致します」
「嘘だろ……!なぜこのタイミングで……!」
「ですが…ご安心を…すでに脅威は一時的に退けられています」
「どういう意味だ?」
ヘンリーが眉をひそめる。
「……我が同志・ジロウが、鬼を無人島へと封じ込めました。島は外界から完全に隔絶されており、鬼が自力で脱出することは不可能と思われます」
「そ、そんなことが……!」
だが――
「……ただし、その際……ジロウは命を落としました」
その言葉に、場の空気が一瞬で凍りつく。
「激闘の末、自らの命と引き換えに、鬼を葬ったのです」
「……うそ……ジロウが……?」
アンの手が、無意識に口元を覆った。
「ジロウ……?」
ヘンリーが聞き返す。
「彼は……私が桃九郎を仲間に引き入れるために、使者として送った者です。あんなに……まっすぐな男が……」
「彼は、命を賭してこの国を守ってくれました。まさに英雄です」
沈黙。
だが、アンは涙を堪えながら立ち上がった。
「……ジロウの死を、決して無駄にはしません」
その声には、揺るぎない力が宿っていた。
「今、レジスタンスは副長を失い、動揺しています。私たちが先導しなくては、この戦いは崩れてしまう」
「アン……」
「立ち止まってはいけない。泣いている暇なんてありません。ジロウが最後に守った未来を――私たちがつなぐのです!」
その言葉に、ヘンリーの胸が熱くなった。
「あぁ……必ず、無念を晴らそう」
「……ええ、必ず」
だが、ふと浮かんだ疑念が、ヘンリーの声を曇らせた。
「それにしても……なぜ今になって鬼が復活する? 作戦決行を目前に控えたこのタイミングで……」
「誰かの“思惑”かもしれません」
ジョージが低く呟く。
「――ホレス、か」
ヘンリーの拳が、ギリッと鳴った。
「間違いない……あいつが仕掛けた罠だ……!」
怒りと焦燥が入り混じる中、アンが鋭く声を発した。
「鬼の出現、ジロウの死、そして揺らぐ民心……クーデター決行の日まで、もう猶予はありません」
アンは拳を握りしめ、真剣な眼差しでヘンリーを見つめた。
「混乱の渦に飲まれる前に、私たちが動かなくては――作戦を立てましょう。……ヘンリー、さっきの続きを聞かせて」
アンの言葉に、ヘンリーは頷く。
「……ああ。だが、これはあまりにも衝撃的な内容だ。心して聞いてほしい」
そして、ヘンリーは禁書に記されたすべてを語った。
・桃の木とは、オロチという人間の成れの果てであること
・木は悪意を吸い込み、肥大化し、その果実から人が生まれるということ
・桃の木が悪意を吸収することで、民の感情は意図的に“安定”させられているという事
・桃から生まれた者たちは、根本的に“悪意”を宿している可能性があること
・初代救世主は桃から生まれていない、つまり悪意から生まれた者を隠す“嘘”であったこと
・そして、その木を切ることができるのは、“光の力”を持つ者だけであるということ
さらに、ヘンリーの調査を通じて浮かび上がった事実――
ホレスは王宮敷地内に人工的な“桃の木”を大量に栽培していた。
その目的は明らかではない。しかし、大量の食料と武器を備え、秘密裏に動くその姿は、何かを“育てている”としか思えなかった。
禁書とホレスの行動。
すべてがつながった時、部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
「そ、そんなことって……」
アンが、声を震わせながら呟いた。
「……だから、あの男は税を使って悪意を生ませていたんですね……意図的に人々を苦しめて……」
「この世界の“感情”そのものが、操られている。悪意を肥やしとして、ホレスは何かを――いや、“誰か”を生もうとしている」
静寂。
その中で、アンがそっと口を開いた。
「……それならば」
静かに、しかし決然と。
「私には、もう一つの使命が増えました」
「使命……?」
「“光の力”を持つ者を探し出し、その手で――“桃の木”を斬ることです」
「桃の木を……?」
「ええ。この世界を、あるべき姿に戻すために」
「……あるべき、姿……?」
「オロチの木……あの存在を知っているのは、私たちとホレスだけ。歴代の王たちは、その木の存在を“利用”してきた。民の悪意を吸収してくれる木――確かに、政治はやりやすい。けれど、それは“幻想”です。私は、目を背けたままの世界にはしたくない」
言葉の一つひとつが、まっすぐに心へ届く。
「……ミコトが出来なかった後悔を果たそうと……」
ヘンリーの問いに、アンはゆっくりと頷いた。
だが――
「でも……」
ヘンリーが口を開きかけたその時、アンの瞳にかすかな迷いが走る。
「……そこに、迷いが?」
「……それって……本当に正しいことなのでしょうか。すみません、自分で言っておきながら……」
視線を落とし、アンは静かに続ける。
「桃九郎のように、悪に染まらず生きる者もいます。……それを、“生まれながらの罪”として否定していいのか、私は……答えが出せません」
沈黙。重く、答えのない問い。
「……アン、君は優しすぎる」
ヘンリーが呟いた。
「ホレスのような存在と共存なんて……私には考えられない。奴は確かに“悪意”そのものだ」
「私だって、ホレスを許すつもりはありません。ただ……“すべてを排除すること”が正義なのかと、自問してしまうのです」
彼女のまなざしは、遠く何かを見つめていた。
「それでも、まずは国を守ること。そして、“光の力”を持つ者を探し出すこと。それが今、私たちにできる唯一の道です」
「……ああ。そうだな」
二人の目が静かに合った。
心の奥では答えが見つからなくても、やるべきことは――はっきりと見えていた。
未来の正義を選ぶのは、まだ先。
今はただ、戦うしかなかった。
その時――
「……その話、ぜひ私も混ぜてくれないか?」
静寂を裂くように、低く響いた声。
全員の動きが一瞬で止まった。
空気が凍りつく。
その声を、誰よりもよく知っていた。
「……!?」
ヘンリーの顔から血の気が引いた。
脳裏に最悪の光景が閃く。
――まさか、聞かれていたのか。
ゆっくりと、振り返る。
まるで夢の続きを恐れるかのように。
そこにいたのは――
薄く笑みを浮かべた男。
鋭い瞳と、異様なまでに落ち着いた足取り。
漆黒の衣を揺らしながら、その存在は、まるで空気そのものを支配していた。
「……ホレス……」
アンの声が震える。
ジョージは即座に手を剣にかけたが、冷や汗が頬を伝う。
ホレスは、ゆっくりと歩み寄りながら、口角をつり上げた。
――まさに、地獄の門が開いた瞬間だった。