【第110話】秘密
「……ずっと、隠していてすみません」
アンの声は、夜の静寂に溶けるように穏やかだった。けれどその芯には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「私の人生は、あの日――“真実”を知った瞬間から変わったんです。人々の苦しみは偶然ではなかった。意図的に、仕組まれたものでした」
ヘンリーの指先が、わずかに震えた。
「私は、知ってしまった以上……見過ごすことができなかったのです」
「……危険すぎるよ、それは……」
かすれた声が、ヘンリーの喉からこぼれた。
「数年前、私はローズブレイド家の後ろ盾を得て、“レジスタンス”を結成しました。中心となったのは……桃から生まれた者、桃九郎です」
「……なに……?」
ヘンリーの目が大きく見開かれる。
「桃から……? ホレスのような……?」
「ええ。でも、彼は違います。桃九郎は、心に“善”を持つ者。あの男とは……根本から、違う」
その言葉は、ヘンリーの常識を根底から揺さぶった。
善の心。本当なのか?
ずっと遠ざけていた“禁書”の記憶が、脳裏をよぎる。
「……ずっと……君たちは、動いていたのか……?」
「はい。ですが、この話を今まで伝えられなかったのは……あなたが、“ホレスの呪縛”の中にいたからです」
ヘンリーの瞳に、影が落ちる。
彼の胸を、得体の知れない黒い感情が満たしていった。
「……アン……」
彼の声が震える。
「君は、この計画のために、僕に近づいたのか……? 僕を……また、“利用”したのか……?」
疑念の種が、音もなく心に芽吹く。
長く信じていた存在への“裏切りの可能性”は、どんな刃よりも鋭く、深く、彼の心をえぐった。
「――君にとって、僕はただの“王”だったのか。立場だけが……君にとって必要だったんだな……」
ヘンリーは、その場に崩れ落ちた。
痛みにも似た苦しみに、胸が締め付けられる。
自分はまた“人”ではなく、“道具”として扱われていたのかと――
だが、アンはその場で、ゆっくりと膝を折った。
「それは、決してありません」
彼女の声は、ただ静かだった。
揺れも、迷いもない。凛とした、まっすぐな声だった。
「……もういい。嘘は聞きたくない……」
「ヘンリー、私の言葉を最後まで聞いてください」
「……もう、何も……信じられない……」
重苦しい沈黙が落ちる。
その中で、アンは静かに言った。
「私があなたと過ごしてきた日々……それすらも“嘘”に思えますか?」
ヘンリーは、思わず顔を上げた。
「私は、あなたという人を、心から信じています。――話し、笑い、時には喧嘩もし、私は確信したんです」
アンの瞳は、優しさと誠実さで満ちていた。
「あなたは、誰よりも人の痛みに寄り添える人。臆病でも、逃げ続けてきた人でもない。……あなたは、本当の“王”になれる人なんです」
その言葉は、氷のように冷たく閉ざされた心を、そっと溶かす炎だった。
涙が、ヘンリーの目尻から静かに落ちる。
「だから私は、あなたを“利用”したいのではありません。――“共に、戦ってほしい”のです」
「共に……戦う……」
「ええ。あなたは“王”です。その血が、名が、責任が――逃げられない宿命だとしても」
アンは、ふわりと微笑んだ。
「もう逃げなくていい。私は、あなたを支えます。あなたが立ち上がれば、この国は……必ず変わります」
ヘンリーの胸の奥で、かすかに残っていた炎が、ふっと灯った。
「……僕は、変われるのかな……」
「もう、変わり始めていますよ」
「……でも、怖い。……怖くて仕方がないんだ」
「大丈夫。私たちが、あなたのそばにいます」
アンの言葉は、凍てついた大地に降る、春の雪解けのようだった。
その優しさに、ヘンリーの中の亡霊が、静かに泣いた。
――この人は、どれほどの時間、ひとりで闘ってきたのだろう。
――どれほど、誰かの痛みを背負いながら、ここまで来たのだろう。
その覚悟と強さに、自分は何を疑っていたのか。
何を怖れていたのか。
ヘンリーは、静かに手を胸に当てた。
「……私は、変わりたい」
その言葉は、小さな決意。
けれど確かに――亡霊と呼ばれた王が、初めて自らの意思で踏み出した、夜明けの一歩だった。
このとき、ヘンリーは静かに心を決めた。
たとえ自信などなくても――戦う。
震える足でも、迷いを抱えたままでも構わない。
守りたい人がいる。
取り戻したい国がある。
その想いだけは、もう誰にも奪わせない。
アンを守る。そして、この国の未来を、自らの手で取り戻すのだ。




