【第107話】令嬢アン
桃歴149年。
王・ヘンリー、24歳。
王座に就いてから15年の歳月が過ぎていた。
だが今、国民の誰もがその名を口にすることはない。
彼はいつしか、こう呼ばれるようになっていた――「亡霊王」。
それは皮肉でも誇張でもなかった。
この数年、ヘンリーは王宮の門を一歩たりとも出ていない。
政に顔を出すこともなく、演説もしない。
その存在は、もはや“声なき影”に等しかった。
原因は、ただ一つ。
――ホレスへの絶対的な恐怖。
少年王が即位したあの日から、地獄は始まった。
次々と葬られた側近たち。夜ごと繰り返される粛清の気配。
怯え、抗う力を削がれ、心を閉ざしていった少年は、
やがて“王”という肩書きだけを残し、静かに壊れていった。
今のヘンリーは見る影もない。
痩せこけ、血色を失い、日に当たらぬ顔は青白い。
夜は眠れず、食事は喉を通らず。
眼差しは常にどこかを彷徨い、言葉はすでに魂を失っていた。
もはやその姿は――「王」などではない。
そして、壊れていたのは――王だけではなかった。
この国そのものも、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。
裏で王を操るホレスの悪政は、年を追うごとに苛烈さを増し、
民の暮らしは疲弊しきっていた。
街は貧しさに覆われ、活気は消え、荒れ果てた土地が国土を侵していく。
中でも最大の打撃は、「鬼の復活」を口実とした増税だった。
――「鬼の復活は、もはや時間の問題である」
そうホレスは公然と宣言した。
「その脅威に備えるため、防衛体制を強化しなければならない。よって国民の皆には、防衛費として相応の負担をお願いする」
巧みに恐怖を煽り、民衆の不安につけ込む形で重税が課された。
それは静かに、だが確実に、人々の心を蝕んでいった。
希望はすり減り、声は届かず、明日を信じる者は日に日に減っていく。
王だけでなく――国もまた、静かに死にかけていた。
そんな中、王宮では――皮肉なことに――
年に一度の「新年舞踏会」が執り行われようとしていた。
着飾った貴族たちが集い、笑い、祝福の盃を交わす祝祭。
だがそれは、崩れゆく現実から目を逸らし続けた果てに飾られた、虚飾の舞台だった――。
年の始まり――
王宮では年に一度の華やかな祝祭、“新年舞踏会”が開かれていた。
それは王族たちにとって、最も格式高く、そして最も贅沢な恒例行事である。
世界中から貴族たちが集い、絢爛豪華な衣装を纏い、金銀の器に並ぶ料理と酒を楽しみ、優雅に踊る。
きらびやかな光の中、音楽と笑い声が絶えず響く――まさに夢のような宴。
だがその夢は、民から見れば悪夢に等しかった。
現実には、重税と圧政に苦しむ民衆が喘いでいる。
その裏で催されるこの舞踏会は、まるで彼らの絶望に蓋をするような、どこまでも“浮世離れした幻想”だった。
そして、この舞踏会にはもう一つ――重要な目的がある。
婚姻だ。
王族の結婚は、個人の意思によるものではない。
それは“家”と“血”の取引。
当事者の感情は度外視され、家系同士の利害と格で決められる。
当然、王も例外ではなかった。
この年、ヘンリー王は初めて舞踏会に強制出席させられていた。
後継者の不在を憂いた王族たちが、強引に彼を玉座へと引っ張り出したのだ。
――24歳。王となって15年。
新年の舞踏会――。
王の登場に、会場は静まり返った。
整えられた金の衣、無理やり整髪された髪、顔の無精髭もぎりぎりまで剃られていた。従者たちは必死に“王の体裁”を整えていたのだ。
だが――
それでも隠しきれなかった。
虚ろな瞳はどこにも焦点を合わせず、足取りはおぼつかない。玉座に腰を下ろした姿には、かつての王の威厳は微塵も残っていなかった。
皆、言葉を失った。
玉座に座る彼は、まるで魂の抜けた“人形”だった。
それが、亡霊王――ヘンリーの今だった。
そして、この夜。
王の婚姻相手として“最有力”と目されていた女性が現れた。
ローズブレイド家の令嬢、アン・ローズブレイド。
25歳、王よりひとつ年上。
艶やかな黒髪に鋭さと優美さを兼ね備えた眼差し。
無駄のない所作、どこか芯の強さを感じさせる凛とした佇まい。
舞踏会の広間。
ついに二人は対面する。
「私は、ローズブレイド家のアンと申します。ヘンリー王、お目にかかれて光栄です」
深紅のドレスに身を包んだアンは、凛とした声でそう告げた。
艶やかな黒髪は無駄のない所作できっちりと束ねられ、その佇まいは威厳すら感じさせる。
礼儀正しく膝を折る姿には、貴族としての誇りと覚悟が滲んでいた。
だが――ヘンリーは返事をしなかった。
ただ虚ろに前を見つめ、動かず、沈黙を貫いていた。
周囲の空気が凍りつく。
だがアンは、まるで何事もなかったかのように表情ひとつ動かさず、静かに立ち上がると――
裾を優雅に揺らしながら歩み寄り、そっと身をかがめて、ヘンリーの耳元へ唇を寄せた。
その異様な光景に、玉座の周囲の従者たちがざわついた。
「おい、何を……!」
誰かが慌てて制止しようと一歩踏み出す。だが、アンの動きには一切のためらいも、威圧もない。
静かで、それでいて凛とした“確信”だけがその所作に宿っていた。
「本当に……亡霊ね」
その囁きは、刃よりも鋭く、氷よりも冷たくヘンリーの鼓膜を突き刺した。
ビクリ、と小さく肩が揺れる。
だが声は出ない。
空気が凍りついたように張り詰める中、時間だけが止まっていた。
「逃げてばかりでは……何も変わらないわ」
まるで罪を断じるように、それでいてどこか慈しむような声だった。
それが、誰にも気づかれることのない、"小さなはじまり"だった。
目だけが、かすかに彼女を追う。
アンは数歩後ろに下がり、にこりと微笑むと、
「またお会いできる日を楽しみにしておりますわ」
そう一礼し、舞踏会の賑わいへと消えていった。
――その言葉が、夜が明けてもなお、ヘンリーの耳を離れなかった。
舞踏会は終わった。
______
その後、王家とローズブレイド家の意向により、
ふたりは定期的に引き合わされることとなる。
だが、会話はなかった。
ヘンリーの口は重く閉ざされ、心は深く沈んだままだ。
他の貴族令嬢たちも同様だった。
どれだけ高貴な家柄でも、どれだけ美しく飾ろうとも、
彼の心に触れる者はいなかった。
――人と関わることすら、今のヘンリーには“苦痛”でしかなかったのだ。
だが。
あの夜の言葉だけは――微かに、心に灯っていた。
「逃げてばかりでは、何も変わらないわ」
その声は、亡霊のようにさまようヘンリーの胸の奥で、
小さく、けれど確かに“希望”の輪郭をなぞっていた――。
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数ヶ月後 ― 王の間。
「王、入ります」
低く響く声と共に、重厚な扉が静かに軋みを上げて開いた。
王の間――
広々とした石造りの空間は、まるで時間が止まったかのように沈黙し、空気さえも冷たく張り詰めていた。
その玉座に、ひとりの男が座っていた。
ヘンリー王。
痩せ細った体を衣に沈め、俯いたまま一言も発さず、ただそこに“置かれて”いた。
「……」
静かに歩を進めたのは、黒髪の令嬢――アン・ローズブレイド。
定期的に王宮を訪れ、誰よりも根気強く、王のもとに通い続けている貴族の一人。
だが、その想いの深さは、他の誰とも違っていた。
「……いつまで、そうしているつもりですか」
アンの声は静かだが、はっきりと芯を持っていた。
優しさと、怒りと、憂いが同居するような響きだった。
ヘンリーは相変わらず俯いたまま、何も答えない。
「世間は、あなたを“亡霊王”と呼んでいます」
アンの言葉は静かに続いた。
「実体のない幽霊なら、まだ良かったのかもしれません。けれど今のあなたは、民を苦しめる“王”だとされている。
高税を課し、贅を尽くしている――そう噂されているのですよ」
ピクリ、と。
ヘンリーの指がわずかに揺れた。
「ですが――」
アンの声が少し、柔らかくなる。
「私は、あなたがそんな人間には見えません」
「……」
「私の目には、あなたはただ――怯えているようにしか見えない。
誰かの支配の中で、声を奪われ、希望を失った一人の青年のように」
アンの瞳はまっすぐに、王を見据えていた。
その眼差しは、真実だけを見ようとする光だった。
「民は今、苦しんでいます。あなたよりも、もっとずっと理不尽な場所で。
だから私は、この国を救いたいと思っている。
貴族として、できることをしたいんです」
言葉の一つ一つが、まるで扉を叩くようだった。
長く閉ざされた心の扉を――
ヘンリーは思わず耳を塞ぎたくなった。
その“まっすぐな光”に触れるのが怖かった。
優しさも、希望も、眩しすぎて痛かった。
だが――
「だから、私はあなたも救います」
その言葉は、まるで刃のように彼の心を貫いた。
「……え……?」
その瞬間、ヘンリーの胸に走ったものは“困惑”だった。
わずかに、かすれた声が零れた。
何年ぶりかも分からぬ、誰かに向けた“反応”だった。
「――あなたが誰よりも、助けを必要としているように見えるからです」
その言葉は、凍てついた空気の中に、そっと置かれた灯火のようだった。
そして、ゆっくりと一歩、踏み出す。
その足取りには、迷いがなかった。
「ヘンリー王――私は決めています」
柔らかく、けれど確かな意志を秘めた声。
「あなたと共に、この国の苦しみと向き合い、立ち向かうと」
その瞳には、遥か先を見据えるような光があった。
彼女は、そのためにここへ来たのだと、確かにそう語っていた。
「やめてくれ……!」
突如、ヘンリーは叫んだ。
「もう……放っておいてくれ……!!」
咄嗟の拒絶。
彼の瞳には恐怖が滲んでいた。
――また、自分のせいで誰かが傷つくのではないか。
また、大切なものを奪われるのではないか。
だから、怖かった。
希望に触れるのが。
アンは、その叫びにも微笑を崩さなかった。
「ふふ……声が出せるじゃないですか」
肩をすくめながら、冗談めかして言う。
「とりあえず、亡霊ではないようですね」
その瞬間だった。
ヘンリーの胸に、何かが――雷のように、確かに落ちた。
長く、凍てついた心に。
ずっと暗闇の底にいた彼の心に。
ひと筋の温かな火が灯ったような感覚だった。
だが、同時に――
その炎は、あまりに眩しすぎて、怖かった。
だから、またそっと目を閉じる。
光から目を背けるように――