【第101話】命〜禁書編〜
――それは、本当に些細な“気配”から始まった。
焼け野原にぽつんと立つ“桃の木”が、ふるり……と震えたのだ。
ザ……ザザザ……ザァァ……
風など吹いていない。
それなのに枝葉は勝手にざわめき、まるで生き物が身をねじるように、きしむ音を立て始める。
「桃の木が、どうしたんだ……この音……?」
ミコトが顔を上げた瞬間、
「オウエンさん……空が……!」
その声に、オウエンもはっと空を仰いだ。
灰色に沈んでいた空が――
まるで誰かが手で払うように、スッ……と割れていく。
裂け目から、眩しい光が射し込んだ。
光は迷わず、ただひとつの場所を照らす。
――桃の木へ。
「なんだ……これは……」
その光に照らされた枝葉は、不気味さを失い、淡い桃色に輝きはじめた。
ついさきほどまで“人の成れの果て”であり“悪意の源”だったとは思えないほど――儚く、美しい。
だがその美しさが、逆に胸を締めつけた。
「ミコト君……あれを見よ……!」
オウエンの声が震えている。
桃の木の枝が、ふるりとしなった。
重たげに実った“ひとつの桃”が、ゆっくり――ゆっくりと揺れ始める。
「桃が……落ちる……」
ミコトは息を呑む。
胸の奥が、ざわりと震えた。
静寂…
やがて――
ドサッ。
その音は、あまりにも軽かった。
熟れた果物が自然に落ちたような、ただそれだけの音。
なのに――
大地も空も、時間さえ止まったように感じた。
「……いるのか……」
ミコトが、ひとつの事実を受け入れるように呟く。
「……あの中に、“二人目”が……」
桃一郎の誕生から十五年。
あの日と同じように――
“新たな桃”が、静かに、生まれ落ちたのだった。
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オロチが掲げた計画――
それはただの暴走ではなかった。
“悪意の循環”だ。
怒り、憎しみ、争い、嫉妬……
人々が吐き出す負の感情を、桃の木が吸い上げ、実として育てる。
そして生まれた存在――鬼は、破壊をもって世界に問いかける。
――「それでも、お前たちは変わらないのか?」と。
皮肉にもその計画は、“完成”してしまった。
オロチ自身が、己の身も魂もすべて捧げ、桃の木そのものと化すことで、
悪意を育む“根”となった。
だからこそ落ちたこの実は、偶然ではない。
これは終わりではなく――
“始まり”だった。
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そして次に――
ふわり。
桃の木が、地面から離れた。
根は土を離れ、枝は風のない空にゆらめき、
幹からは淡い光がこぼれ落ちる。
まるで、役目を終えた神が空へ帰るような光景だった。
「桃の木が……空に、登っていく……」
ミコトの声が震える。
「まずい……どこかへ移動してる……!」
その横で、オウエンが静かに目を細める。
「いや……あれは“悪意”を求めているのだろう。
再び集め、いつかまた――桃を実らせるために」
「……また……桃を生むのか……」
ミコトは血のついた手で地を押し、よろめきながら立ち上がった。
消えゆく木を、必死に睨みつける。
「……追わないと……! あれを放っておいたら……!」
その肩に、そっと温かな手が乗せられた。
「ミコト君。……もう、いい。追わなくていいんだ」
「オウエンさん……でも……!」
「今の君が追っても、何もできない。
体は限界だろう……心も、だ」
その一言が、胸の奥を鋭く刺した。
――ミコトは知っていた。
オウエンの言葉には、もうひとつの意味がある。
ミコトは、あの木を“斬れない”。
追ったところで、出来る事は何も無い。
分かっていた。
けれど誰かに言われると、あまりにも苦しかった。
ミコトは、強く息を吐き、
その場にそっと腰を下ろした。
そして、空へ昇る桃の木を見送った。
青空の中、木はゆっくりと小さくなり――
やがて、
一筋の光となって消えた。
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東の町に、ようやく静寂が戻った。
崩れた建物。焼け焦げた大地。
その中心に立ち尽くすのは――ミコト、オウエン、そして地面に転がるひとつの桃の実。
風は吹かない。
だけど、世界がゆっくりと息をしているのが分かった。
やがて、ミコトが静かに立ち上がる。
その瞳には迷いではなく、やさしく揺れる“光”が宿っていた。
「オウエンさん……」
「……なんだい?」
「この桃を……僕に、任せてくれませんか」
その言葉に、オウエンの肩がぴくりと跳ねた。
「任せる? 待ちなさいミコト君! それは“悪意”の桃だぞ!
あの木から生まれた実だ! また何が起こるかなんて――」
〝サッ〟
オウエンの声を切り裂くように、ひとつの音が響いた。
――ミコトは、迷いなく桃を斬ったのだ。
鋭い光の軌跡が走り、桃は静かにふたつへ割れる。
刹那――
切り口から、ぽうっと温かい光があふれ出した。
そして、その中心に。
「……おぎゃぁ……おぎゃあ!!」
力いっぱい泣き出す、ひとりの赤ん坊がいた。
その声は、
恐れでも、呪いでも、悪意でもなく。
ただの――“命”の声だった。
ミコトはそっと膝をつき、震える手でその赤子を抱き上げる。
小さくて、温かくて、頼りなくて、でも……確かに生きていた。
「オウエンさん……」
「………?」
「こんな小さな子が、悪意に染まってるわけ……ないじゃないですか」
ミコトの頬を、透明な涙が一筋、二筋と伝い落ちる。
その涙は、
絶望ではなく――“救い”の涙だった。
「この子は――僕が育てます」
「な、なにを言ってる!? 本気かミコト君!」
ミコトは微笑んだ。
その笑顔は、三年前の少年ではなく、未来を背負う“光”だった。
「名前は……桃二郎。
桃から生まれた、二人目の子です」
静かに、しかし確かな決意を込めたその声に、
光がそっと寄り添うようにミコトの背中を照らしていた――。




