【第10話】三神獣
「……うっ……モーモー太郎君……無事か……」
重たい瞼がゆっくりと開き、ホレスの視界に“現実”が流れ込んでくる。
血の匂い。湿った土。折れた枝。
そして――土へ還ろうとしている二つの温もり。
その傍らで、モーモー太郎が膝をつき、冷えた手を握りしめていた。
「モーモー太郎君……」
呼びかけても、返事はない。
肩が、微かに震えるだけだ。ぎゅ、と握られた蹄には血が滲んでいる。
「……あの“ネクター”とかいう男は?」
ようやく、モーモー太郎が口を開く。
「……どこかへ、去っていきました。“目的は達した”と」
「やつの目的……いったい何だったんだ」
「“きびだんご”を奪い…真世界…それから、“三神獣”そう言っていました」
「三神獣……だと……!?」
ホレスの顔色が、目に見えて失われていく。
口元が引き攣り、息が浅くなる。
「……ホレスさん、教えてください。知っていることを全部。
なぜ二人は、こんな目に遭わなければならなかったのか……」
モーモー太郎の瞳には、疑念と絶望が同居していた。
「……わかった。だが、まずは――」
ホレスは、そっと目を伏せる。
「二人を、安らかに眠らせてあげよう」
風が、優しく吹いた。
葉がさらさらと鳴り、山の鳥たちが、遠くで短く啼いた。
_____
夕焼けと月光のあいだ――
二人は、静かに、丁寧に、何度も手を合わせながら、土をかけていく。
土の匂いが、胸の奥に染みた。
――ザザ……ザッ。
ひとすくいの土が落ちるたび、モーモー太郎の肩が、かすかに震えた。
「お爺様……お婆様……」
灯のように、小さく、けれど消えない声。
最後の一握りまで、彼は手を止めなかった。
やがて、盛られた土の上に、モーモー太郎はそっと手を置いた。
深く、深く、頭を垂れる。
ホレスも、静かに片膝をつき、目を閉じた。
――ありがとう。
――どうか安らかに。
言葉にならない祈りが、夜へと溶けていく。
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夜は静かに降りた。
焚き火がぱちぱちと鳴り、赤い炎が、顔の影を揺らす。
「……ホレスさん。教えてください」
モーモー太郎の声音は、闇を切り裂く様に鋭い。
「うむ。だが――」
ホレスは火に手をかざし、短い“間”を置く。
「話す前に、ひとつ確認させてくれ。この話を聞けば、君自身が危険に晒されるかもしれない。……それでもいいのか?」
即答だった。
「僕は、このまま“何もなかったふり”なんて、できません」
炎の照り返しが、彼の瞳の奥の決意をきらりと照らす。
ホレスは、その光を正面から受け止め、ゆっくり頷いた。
「……そうか。ならば、話そう」
深く、息を吸う。
重い扉を開けるように、ホレスは語りはじめた。
_____
「まず、“きびだんご”についてだ」
モーモー太郎は、掌に一粒の団子を乗せて、じっと見つめる。
小さく、丸く、ただの和菓子にしか見えない。
――だがこれが、惨劇の引き金になった。
「ネクターが狙ったこの団子……これは、一体……」
揺れる炎が反射して、団子の表面が鈍く光る。
ホレスはゆっくりと頷いた。
「それは――今から一六四年前、鬼に対抗するため“王家”が作り上げた、“兵器”だ」
「兵器……! これが……?」
信じられない。
掌の温もりと、言葉の冷たさがかみ合わない。
ホレスは、炎の弾ける音に合わせるように、古文書の一節を口にした。
「王家に伝わる記述には、こうある。
――『団子を口にした者は、“きびだんごの所有者”に絶対服従する』」
沈黙。
火の粉がひとつ、空に弾けて消えた。
「絶対……服従……?」
モーモー太郎の声が、わずかに震える。
人の心を、一粒で縛る――そんなものが、あって、いいはずがない。
「私も信じ難かった。だが、これは“代々の最重要機密”として伝わっている“事実”だ」
ホレスは焚き火へ視線を落とす。
「そして――君の“お爺さんとお婆さん”が、それをなぜ持っていたのか。……そこが、私にとっても“大きな謎”だ」
団子が、掌の上で急に重くなったように感じられる。
モーモー太郎は、指先できゅっと握り込んだ。
「二人は……どうして……」
声が掠れる。
「もし、それが本当だとして――ネクターは、これで何をしようとしているんです? “三神獣”と、関係が……?」
ホレスは短く目を閉じ、慎重に言葉を選ぶ。
「ここからは“憶測”になる。ネクターの“計画”…
奴は…きびだんごを使い、三神獣を従えるつもりだ…」
ごくり、とモーモー太郎が唾を飲む。
「従える!?…その三神獣とは…?」
「実は――世に知られていない“もう一つの真実”がある」
「もう一つ……?」
モーモー太郎が顔を上げる。
炎の赤が、瞳の奥で揺れた。
ホレスは、静かに頷いた――。
「……それは――この世には“三神獣”と呼ばれる怪物が存在するということだ。
そしてその力は、かの“鬼”に匹敵する」
――パチッ。
薪が爆ぜる音が、妙に鋭く響いた。
「鬼に匹敵……? 怪物……?」
モーモー太郎の声は震えていた。
だが、ホレスの目には一点の迷いもない。
「知るはずもない。三神獣の存在は、王政によって完全に秘匿されている。
民衆の耳に届くことは――決して、ない」
「……そんな話……。
もし本当にそんな怪物が存在するなら……なぜ今まで、何も起きていないんですか?
鬼のように人を襲ったっておかしくないはずでしょう!」
モーモー太郎の声は、驚きと恐怖が混じって、荒くなっていた。
ホレスは、静かに炎を見つめながら言った。
「それは――“奴ら”が封印されていたからだ」
「……封印……?」
「そうだ。三神獣は“三体で一つ”。
大鳥・大猿・大狼――この三体こそが“三神獣”と呼ばれている。
かつて“救世主”と呼ばれた人物が、鬼を討ち倒す際、奴らの力を借りたのだ」
「……救世主……!?」
「いや――正確には、こうだ」
ホレスは、焚き火の火を見つめたまま、ゆっくりと告げる。
「救世主は“三神獣を使い”、"鬼と共"に封印したのだ」
「……鬼と共に!? ……ちょ、ちょっと待ってください。鬼を封印って…救世主は鬼を倒したんじゃないんですか!?」
「これは王族しか知らない“真実”だ。
救世主は鬼を倒していない。三神獣の力を使い、封印した」
「な……な、なんだって……!?」
モーモー太郎は立ち上がりかけ、焚き火の炎が一瞬、彼の影を大きく伸ばした。
足元の小石がカランと転がる。
「そして――」
ホレスは静かに続けた。
「十四年前。その封印を“解いた者”がいる。
いま“鬼ヶ島”にいる鬼は――長い間“封印されていた鬼”なのだ」
――ドクン。
モーモー太郎の心臓が、大きく跳ねた。
十四年前……それは鬼が再び現れた年。
“空が裂け、鬼が降りてきた”と伝えられている、あの年だ。
「そ……そんな話……信じられるわけが……」
彼は頭を抱えた。
「……その三神獣は今まどこに!?」
ホレスは、モーモー太郎の問いを遮らず、淡々と答えた。
「山奥の祠、誰も足を踏み入れぬ禁足地…… 人々が気づかぬ間に、ずっと“そこ”にいる
三神獣は――こちらから危害を加えない限り、何もしない。
ゆっくりと、神のようにそこに“佇む”」
――ゴウ……
夜風が焚き火を揺らした。
赤い炎が一瞬だけ低くなり、二人の顔を闇が包む。
モーモー太郎の脳裏に、ネクターの不気味な笑みと、冷酷な瞳が鮮明に蘇った。
あの男が言った言葉――「三神獣」――が、急速に現実味を帯びていく。
「ホレスさん……すみません。話が……壮大すぎて……」
モーモー太郎は膝に手をつき、俯いた。
「でも……ネクターは何をしようとしているんですか。
そんな怪物を使って……この世界を恐怖に陥れて……いったい何を得ようとしているんです……?」
「……それは、私にも分からない」
ホレスは、焚き火の炎を見つめながら、低く呟いた。
「だが――三神獣の名が出た以上、ただ事ではない。
ネクターの計画は、きっと“世界を揺るがす”何かだ……」
モーモー太郎は、言葉を失い、炎をじっと見つめた。
ゆらゆらと揺れる光が、彼の心の迷いと不安を、まるで映し出しているかのようだった。
――パチ……パチ……。
夜は、さらに深くなっていった。
_____
焚き火が静かに弾ける音だけが、二人の間に流れていた。
夜は深まり、森を包む闇は濃く、冷たい空気が肌を刺す。
「……僕は……この話を……まだ信じることが出来ない……」
モーモー太郎の声は震えていた。
「……そうだろうな」
ホレスは穏やかにうなずいた。
しかし、モーモー太郎は拳を握りしめ、目を見開いた。
「でも……もしそれが本当なら……誰かが止めないといけない!!」
「モーモー太郎君……」
その瞳には、強い光が宿っていた。
ホレスは、その姿に心を打たれたように目を細める。
「ホレスさん……!ネクターを追いましょう!!」
「君という男は本当に……なんて勇敢なんだ」
ホレスは小さく笑った。
「あいつを止めるために……そこへ案内してください!」
力強い声。しかし――
「……いや」
ホレスは、静かに首を横に振った。
「さすがに……もう間に合わないだろう。ネクターはすでに動き始めている。
今から追っても、手遅れになる可能性が高い。……別の手を打つべきだ」
「そんな……!でも、相手は“鬼”に匹敵する怪物なんでしょう!?
手懐けられたら……どうやって対抗するって言うんですか……!」
モーモー太郎の声には、焦燥と怒りが混じっていた。
「……!」
そのとき、ホレスの瞳がパッと見開かれた。
まるで暗闇の中で光を見つけたような、ひらめきの表情だった。
「……そうだ……鬼ほどの力……待てよ……それだ」
「え……?」
「モーモー太郎君……かなり危険な橋だが……もうこれしかないかもしれない」
「……何か、作戦が?」
ホレスは深く息を吸い込み、焚き火の明かりを背にして、真剣な声で告げた。
「ああ……“目には目を、鬼には鬼を”だ。
――三神獣に、鬼をぶつける」
その言葉と同時に――
ボッ、と焚き火が大きく燃え上がった。
「えっ……!? 鬼を……ぶつける!?」
モーモー太郎は一歩後ずさる。あまりに突拍子もない作戦に、理解が追いつかなかった。
「君の持つ“きびだんご”で、鬼を手懐けるのだ」
その一言は、夜空を裂く一筋の光のようだった。
だが――
「いやいやいや、ホレスさん!! そんなの無理に決まってるじゃないですか!
相手は……あの“鬼”ですよ!?」
モーモー太郎の声は震えていた。
あの恐怖、圧倒的な力……思い出すだけで背筋が凍る。だがホレスは、真っ直ぐな目で言い切った。
「分かっている。だが、無理ではない。それしかないんだ。
三神獣に対抗できるのは、同等の力を持つ“鬼”だけだ」
「でも……この団子が本物かどうかも分からないのに……!」
「私は、この作戦を“無謀”だとは思わない」
ホレスは焚き火を見つめながら、ゆっくりと語った。
「そのだんごが本物である証拠は、すでに二つある」
彼は指を一本、立てる。
「一つは――おじいさんとおばあさんがこれを君に託し、“鬼退治”に向かわせたこと」
次に、二本目の指が立つ。
「もう一つは――ネクターが、この団子を狙って襲ってきたという事実だ」
その声には、揺るぎない確信があった。
「……確かに……そうかもしれないけど……」
モーモー太郎は拳を見つめた。
「あの怪物に……僕は、一度……負けている……!」
「負けてなんかいない!」
ホレスの声が、夜の森に響いた。
焚き火の炎が一瞬、爆ぜた。
「君は――生きて帰ってきたんだ!
あの鬼と対峙し、生き延びた者など……私の知る限り、君しかいない!!」
その言葉は、モーモー太郎の胸の奥で何かを揺さぶった。
「……私たちしかいない」
ホレスが、小さく、しかしはっきりと呟いた。
――その瞬間、モーモー太郎の瞳に、炎が宿った。
「……分かりました。やりましょう」
静かな声だった。だがその言葉には、確かな“覚悟”があった。
ホレスは深く頷き、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、モーモー太郎君……。
必ず、ネクターの野望を阻止しよう」
二人の背中に、焚き火の残り火が柔らかく光を投げかける。
それは、夜の闇の中で、確かに燃え続ける――小さくても、消えない希望の炎だった。




