【第1話】モーモー太郎
むかし――むかし。
遠き時代のこの国には、ひとつの影があった。
「鬼」と呼ばれる存在。
それは怪物などという生易しい言葉では到底足りぬ。
背丈は五メートル。人には到底抗えぬ巨体。
雷鳴に似た咆哮。
ひと振りの腕で森が千切れ飛ぶ。
まるで――災厄そのもの。
逃げ惑う群衆の叫び。
燃え落ちる村。
絶望はただひたすらに広がっていく。
そのとき。
ひとりの戦士が現れた。
鎧に身を固め、瞳に烈火を宿したその者は、鬼の前に立ちはだかった。
剣と拳が火花を散らし、天地を揺らす死闘。
そして――。
大空を切り裂くような一太刀が鬼を貫いた瞬間。
黒煙の裂け目から朝日が差し込み、戦士の影は黄金に輝いた。
人々はひざまずき、歓喜に泣き叫んだ。
「救世主」とは、この者のことを言うのだと。
英雄は静かに剣を収め、一言だけ告げた。
「……私は、桃から生まれました」
――こうして伝説は始まった。
⸻
それから百六十四年。
人里離れた深い森の奥。
陽を遮る木々。
せせらぎが光を映す清らかな川。
鳥のさえずりと風のざわめきだけが響く世界。
その静寂を破るように、ぽつんと一軒の木造の家があった。
庭先には小さな畑。
土は柔らかく、草は刈り揃えられ、人の営みの痕跡が息づいている。
――昼下がり。
ギィ……と戸口が開いた。
現れたのは、白髪を布でまとめた老婆。
彼女は畑を見渡し、森の奥へ視線をやり、低く呟いた。
「……そろそろ、帰ってくる頃かねぇ」
その言葉と同時に――。
ガサッ。
ガサ……ガサッ。
草を分ける音。
何かが近づいてくる。
老婆の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。
小さな手をゆるりと掲げる。
「……おかえり、モーモー太郎」
「ただいま帰りましたっ、お婆様!」
森に響くのは朗らかで快活な声。
だが、その声の主は――
人ではなかった。
姿を現したのは、一頭の牛。
白と黒の斑模様を持ち、背には山菜の束を背負っている。
そして驚くべき事に、流暢に人の言葉を話している。
その名は――"モーモー太郎"。
「今日は、いい山菜がたくさん採れましたよ!」
胸を張るその瞳には、確かな知性と温もりが宿っていた。
老婆は目を細め、声を洩らす。
「……働かせてしまって悪いねぇ」
「お婆様、それは何度も申し上げております!」
モーモー太郎は大きく首を振った。
「僕は“働かされている”んじゃありません。僕を拾って育ててくださったのは、お爺様とお婆様です。恩返しをしているだけなんです!」
老婆は皺だらけの手を差し伸べ、牛の額を撫でた。
掌に伝わる温もりは、血を分けた子に触れるのと変わらない。
「……ほんに優しい子だねぇ、あんたは」
モーモー太郎は照れくさそうに鼻を鳴らし、耳を揺らした。
――桃から生まれた英雄の伝説から百六十四年。
人語を話す牛、モーモー太郎。
彼を中心に、新たな物語が静かに幕を開けようとしていた。




