侯爵令嬢 ①
好きだったの。
初めてお会いしたその時から、ずっとこの気持ちは変わらない。
『初めまして。やっと会うことが出来たね。』
そう言って青い瞳がキラキラ輝いて、優しく微笑んでくれた。
そんなあなたと一緒にいられる事が私の生きる意味となった。
『仲良くやって行こう。』
その日の事を今でも鮮やかに覚えているわ。
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『真実の愛にめぐり逢った。心から愛する人かいるのに、おまえと並び立つ事は出来ない。故に、今を持っておまえとの婚約を破棄する。』
王家主催の舞踏会。
あなたは傲慢にもギャラリーの前でそう宣言した。
覆水盆に返らず、坂道を転がる石を止める事は出来ない。
10年
あなたの婚約者としてすごした時間。
あなたと並び立つ為に努力した時間。
それをたった3ヶ月で培った、真実の愛やらに覆された。
あなたを愛したわたくしはいらないものになった。
騒ついたギャラリーは水を打ったように静まり、固唾を飲んでこの茶番の行く末を観ている。
取りすがって、泣き叫んで、わたくしを捨てないでと言っても元に戻れるとは到底思えない。
大勢の前で晒し者にされ、侮辱されているとも取れるこの宣言。
そこで泣いてすがるなんて無様な真似を晒すのは、わたくしの矜持が許さなかった。
「……フェルナンド王太子殿下、お久しぶりでございます。御機嫌いかがでしたでしょうか。」
ーー笑うのです。
美しい声がそう囁いた気がした。
辛くても悲しくても、心の内を晒してはいけない。
そう教えてくれた、美しい人。
それはこの10年で学んだ事のひとつ。あなたにいらないと言われ、消えて無くなってしまいたいと思ってもそれを表に出す事はしない。
そう教育されてきたから。
それにわたくしを否定したあなたに、わたくしの心を見せる必要もないでしょう?
わたくしを見る青い瞳は冷たく、何の躊躇も労わりも友愛も浮かんではいない。
あの頃のあなたを探し出す事は出来なかった。
「今の宣言は王家の御意向と考えて宜しゅうございますか?」
「………そうだ。」
「左様でございますか。ならばわたくし如きが口を挟む事ではございません。婚約破棄、承りました。ーーー今後のこともございますので、本日はこれで失礼致しますわ。」
最高位の淑女の礼を。
もう会うこともないあなたへ最上のわたくしをお見せしましょう。
艶やかに、華やかに。
周囲からの感嘆の呟きを、賛辞として。
見開いたあなたの青い瞳を、褒美として。
わたくしは消えてしまいましょう。
さようなら、わたくしが愛したあなた。
本来ならば婚約者がエスコートを務めるのだが、訪れない婚約者に痺れを切らした従兄弟が今宵のエスコートをかって出てくれた。
こんな夜会に伴ってしまって申し訳なく思う。
従兄弟は侮蔑を含んだ目で殿下を向け、それを直ぐに消し去るとニコリとわたくしに笑いかけて手を差し出してくれる。
誰も何も言わないで。
『王家の意向』に否を唱えれば、反逆罪とみなされても仕方ないのだから。
静まり返った会場を悠然と歩く。
わたくしは追い出されるのではなく、自ら去るの。
歩き出せば人々が道を開けてくれる。
そんな人々に微笑みを感謝を浮かべて出口を目指した。
背後で閉ざされた優美な扉。
従兄弟に痛ましげな視線を送られても苦笑いしか出ない。
「お父様に報告しなければ。どちらにいらっしゃるかしら?」
側に寄った護衛に尋ねれば、まだ執務室にいると言う。
今日の茶番をお父様は知っていたの?
お父様に限ってこんな稚拙なシナリオを書くはずがない。でも国に忠誠を誓う父の1番は国で。わたくしは何番目になるのか。
わたくしは邪魔になったのかしら。
だから切り捨てられるの?
疑心暗鬼で執務室へと参り、取次を頼む。
すると直ぐに中に入るよう促された。
「どうしたの?まだ夜会も始まったばかりではないかな?」
席を立つでもなく、忙しく視線を書類に走らせている。
お父様は今日の事は知らない?
「わたくし、殿下に婚約破棄を言い渡されましたの。何でも王家の御意向とか。お役に立てず申し訳ございませんでした。」
報告を噛み砕き認識したのか、手にしていた書類を音を立てて握り潰す。
自分と同じ色の瞳が大きく見開かれ鈍い光をおびた。
あの書類はもうダメね。
お父様の手の内でひしゃげてしまった紙を見て思う。
まるでわたくしみたい。
でもそんなお父様を見て確信出来た。
「……ご存知なかったのですね…」
やっとまともに息がつけた。
家族にまで疎まれていたのだと思っていたから。
お父様と従兄弟が何やら言い合っていたが、言葉が通り抜けていく。
目の前がチカチカと光って、少しすると真っ黒に染まった。
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目が覚めるとそこは見慣れた自分の部屋だった。夜着を身につけ、寝慣れた寝台の上。
「お嬢様!目が覚めましたのね。」
そう言った侍女の目が痛ましく潤んでいるのを見て夢ではなかったのだと悟った。
悲しい夢を見た。
そう思いたかった。
でもあれは現実で、わたくしは躊躇なく切り捨てられた憐れな女なのだ。
侍女に渡されたレモン水を口に含む。
「わたくし、倒れてしまったのね。」
「……旦那様をお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「そうね。色々とお聞きしたい事もあるし。わたくしが伺った方が良い?」
「お嬢様はこのままで。旦那様には呼ぶ様にと言付かっておりますので。」
退室の礼をして侍女は部屋を出て行った。
ベットから降りようと思うのだけれど、力が出ない。
何もかもが億劫で、何もかもどうでも良い。
こんな無気力な感じは初めてだった。
7歳で初めてお会いした時には既に婚約者だった。
優しく微笑んで、キラキラとした青い瞳に魅入られた。
この方の隣に相応しい妃となれる様にと努力を惜しまなかった。
燃え上がる愛ではなくても、ほのかに暖かいそんな愛を育めると思っていた。
それは全てわたくしだけの絵空事だったと思い知らされた。
あなたにとってわたくしは邪魔者でしかなくなってしまったのよね。
「入るよ。」
ノックと共にお父様、お母様、お兄様がなだれ込んだ。
お父様とお母様は兎も角、何故お兄様まで?
お兄様は殿下の側近ではなかったか。
わたくしの疑問が伝わったのか、お兄様がゆっくりと優しく頭を撫でる。
「職を辞したんだ。そろそろ父上に習って領地の経営をしても良い年頃だろ?」
やけにスッキリした笑顔だ。
「お、お兄様?」
「そうよ!ジルは全然家に近寄らないだもの。寂しかったのよ?でも、これでやっと家族団欒が出来るのね!」
「お母様……」
お兄様は殿下の御学友で、側近で、すんなりと辞められるはずがないのに。
「そこには私も入っているだろうね?」
「勿論ですわ!あなたがいなければ家族団欒にならないでしょう?」
お父様こそ、そんな暇はないはずだ。だってお父様はこの国の宰相だから。
「ミア、君の体調が良くなったらここを引き払って領地に戻ろう。療養は静かな所でした方が良いからね。」
「休暇を、お取りになるのですか?」
今まで働きづめだったから体を休めるのは賛成だけれど、長くは取れないだろう。あまり長く休んだら政務が滞ってしまう。
「いや?私も歳を取ったし、後継を育てる必要もあるわけだから。ジルと同じく職を辞そうと思う。」
ニコリと口元は微笑んでいるのに瞳は鈍い光を宿したままで。
冷んやりとした寒さを感じさせた。
「……それは、わたくしのせい、ですか…」
婚約破棄に合わせて、閑職に追いやられたとか。
悪い方に悪い方に気持ちが傾いて行く。
わたくしが王家を怒らせる何かをしてしまったのかもしれない。
「勿論違う。言っておくけど婚約破棄は王家の意向などではない。あの若造が自分勝手に捏造した事だよ。今頃陛下は怒り狂っているだろうね。公衆の面前で、王家の意向を振りかざし、婚約破棄を言い渡した。そこに陛下の意思は全くないけど、撤回は出来ないだろうね。事前に根回しをしてちゃんとした手順を踏んでいたらまだ良かったのに。それを陛下のいない時を選んで、独断で、権力を振りかざして行った。殿下の資質が問われるだろう。それにアールデンの名を、建国から受け継がれきた我が一族の忠誠を蔑ろにした。ーーー国への忠誠は変わらないかも知らないけど、彼らに誓う価値がなくなった、それだけの事だよ。」
「だからと言って職を辞するのは!」
「一領主として国に仕える。それで忠信を疑われるのなら仕方ない。国に、陛下に忠誠を持って、今まで尽くして来た。娘まで差し出したのに、それを蔑ろにされて黙ってはいられない。10年だ、10年もの間お前の努力を見て来たんだ。それを事前の相談もなく、あの様な場所で、一方的に、王家を傘にきて宣言するなど以ての外。己の感情だけで突き進む者に付き従うなど出来ない。」
ギュッと握りしめた両の手を優しく撫でる暖かな手。
「お母様……。」
「今まで良く頑張りました。素晴らしい淑女に育って鼻が高いですよ。だから、少しお休みしましょう?あなたもお父様と同じで頑張り過ぎですもの。」
頑張り過ぎ?
そうなのかしら。
わたくしはただ相応しくありたかっただけなのに。
「まずは何も考えずにゆっくりなさい。自分の好きな事をするのでもいいし、何もせずぼんやりと過ごすのもいいでしょう。」
わたくしの好きな事?
それは何?
長い間あなたとの未来しか見ていなかった。
そのために全てを費やして来た。
今更その他を勧められて、途方に暮れる。
わたくしには何もないのだ。
あなたがいなければ、空っぽ。
ただの頭でっかちな張りぼて。
それ以上考えるのが嫌になって、考える事を放棄する。
「わたし……今はただ眠りたいの。何も考えないでぐっすり眠りたい。」
何もない。
空っぽの自分。
だからあなたはわたくしを突き放したの?
あなたの隣には相応しくないと、そう思ったの?
より一層体が重く感じられて全てが億劫になる。
家族にも迷惑をかけている。
職を辞して領地へ戻る。
出来損ないの娘の尻拭いだ。
嗚呼、このまま消えて無くなったら、全て無かった事に出来るのかしら。