第一章
1 脚本家『仁科 勝介』
「『ハイスクール・ボーイズ』ってさ、あまり面白くないよね」
「そう?―――私は意外に嫌いじゃないな」
そんな類の会話を、街中で最近耳にする。皆にとっては日常会話の一ネタに過ぎないと分かっていても、敏感になってしまうのは当たり前になった。
何故なら、僕の職業は脚本家。今は深夜ドラマ『ハイスクール・ボーイズ』の脚本を担当している。
まさか僕がドラマの脚本を書くことになろうとは、高校三年生の時に、初めて脚本を書き上げた頃には思ってもいなかった。
元来僕は自他共に認める神経質の持ち主なのに、尚更大きな仕事が来てからというものの、満足にご飯も食べる事が出来ない。お陰で体重も五キロ落ちた。
《『ハイスクール・ボーイズ』は、関東テレビで毎週水曜日深夜一時から放映している連続ドラマで、キャストは殆ど無名の若手俳優達。しかし回数が進むごとにつれて、視聴率も段々と上がりつつある。その理由には、まず話への感情移入を誘う上手さがある。それにはやはり、劇団『東京カピタン』の脚本を担当する仁科勝介に尽きる。彼は最終回までの期待感を抱かせる力は、多くの脚本家の中でも五本の指に入るだろう》
ある雑誌には、僕を評価してくれる記事があった。しかし業界の評価だけが僕の脚本力の全てを物語る訳ではない。あくまでドラマの対象は一般の視聴者達なのだ。
だから僕にとっては業界の評価も勿論重要だが、それよりも街中の会話に突如出てくる、ドラマに関わる発言を大事にしたいのだ。
僕は今日もそんな日常会話に聞き耳を立てながら一日を過ごしている。
「『ハイスクール・ボーイズ』って、やっぱり面白いよな」
「よく言ってるけど、そんな面白いかな?」
「―――えっ?面白いでしょう」
「うーん、やっぱり私にはちょっと分からないな、何となく。話の展開が早すぎるって言うか―――あんな時間に見るドラマでは無いわよ」
「でもその早さがいいんだって」
劇団の稽古場に向かう途中の小田急線の車内で、こんな男女二人の会話をふと耳にした。僕は僅か一駅の間で、様々な考え事をした。
右側の彼女は眼鏡を掛けていたので、僕はてっきり才女をイメージしていたが、発言内容に疑問点が浮かぶ。
『―――分からないな、何となく』
僕からしたら、『何となく』で否定されては溜まったものではない。徹夜して書き上げた日が何日あったか。様々な移動中でも頭は脚本で一杯だった。
僕は心の中に悔しさが込み上げてきたのと同時に、左側で目を擦っている彼を応援する気持ちになった。しかし、そんな彼の発言にも疑問を抱いた。
『―――その早さがいいんだって』
「……展開の早さ?好きなのは話の内容じゃないのか?」
僕は彼への応援の気持ちが一気に体から冷めて行くのを感じた。
2 劇団『東京カピタン』
「―――その……お腰に着けておられる黍団子を、一粒私に下さい。その暁には、是非ともあなた様のお力になります」
「私はその様な台詞を幾度となく聞いてきたが、一度たりとも実行できた者はおらぬ。口だけでは誰でも強くいられるのだ」
「しかし、私は今までの者とは違います―――」
僕が下北沢にある稽古場の玄関扉を開けようとすると、威勢の良い声が聞こえてきた。僕はその様子に少し嬉々として扉を開けた。
「おお、良い所に来てくれた」
僕と共に『東京カピタン』を立ち上げた際のメンバー、多治見聡が開口一番にそう言った。
「本番には間に合いそうか?」僕が予想する答えは一つだが、敢えて尋ねてみた。
「当たり前だろ、わざわざ聞く事か?」
「何となく聞いただけだよ」
「『何となく』って……文章を書く奴の言う事か?」
「言う事ですよ、実際に言ってるんだから」
僕と多治見は、毎回この様な調子で挨拶を交わす。もう二人とも当たり前のような感覚を持っているので、わざわざ言葉を捻り出してまでもなく台詞が浮かんでくるのだ。そして毎回僕が言う台詞は少しは違うのだが、必ず入るフレーズがある。
―――何となく―――
多治見とは大学の演劇サークル時代からの付き合いで、卒業後に多治見と僕を含めて七人で立ち上げたのが『東京カピタン』だった。最初は資金を集めるのに一苦労で、協賛金を募ったり、アルバイトに精を出して稽古どころではなかったりした時期が殆どだった。それでも僕たちの演劇への情熱が消える事は無く、設立から十ヶ月でようやく舞台構想や台本作成に取り掛かる事が出来た。
一番最初の公演は『アフター・ザ・桃太郎』という話だった。はっきりと言えば、『桃太郎』のリメイク版である。少し違うのは、鬼ヶ島から鬼が様々な人から奪った金銀財宝を、村へ持って帰ったその後や、普通の人間が鬼の魔法にかかって猿や雉、犬などに変わった事だ。
この皆が知っている童話に、現実味を帯びさせた斬新さが段々観客や演劇界でも評価され、現在では『東京カピタン』の代名詞となっている。
「新人が入ったんだよ、おーい」と、多治見は演出の指示を出す時のような、低く太い声を遠くに投げた。
稽古場の奥から、真新しい赤のジャージを着ている女の子が台本からこっちの方に目を向けて走ってきた。そして彼女は紅潮させた表情と一緒にこう言った。
「初めまして!……高田みずほと申します。私、ずっと仁科先生の脚本やこの『東京カピタン』の公演が大好きで、えっと、その、あの……」
「……大丈夫?でも、僕の脚本を気に入ってくれたんだ。ありがとう」
「そ、そんな!……あの脚本を気に入らない人が珍しいですよ!……それで……『ハイスクール・ボーイズ』、毎週欠かさず見ています!」
彼女は語尾を半音程上げながら言った。
「これから宜しく。―――あっ、向こうで呼んでるよ」
「あっ、……ごめんなさい!本読みの途中だったんです!早く台詞覚えないと……私、これから頑張りますので宜しくお願いします!」
彼女はそう言って、また元いた場所へと走って戻っていった。
「―――珍しいな」僕は多治見に話しかけるように呟いた。
「え、何が?」
「だって、今までどんな実力のある奴でも最初の舞台では町人Aとかだったろ」
「―――単独の台詞がある役を何故与えたかって事か」
「お前の今までに無かった事だから、不思議に思ってさ」
「―――何て言うか、他の皆に無いオーラがあるんだよ。今はハッキリと見えないけど、磨けば絶対光ると思う。だからあの子がダイヤの原石なのか、ただの石ころなのかを今のうちに見極めたいってのもあるんだ」
「ふーん……お前がそこまで言うなら、ちょっと見てみたいな」
「丁度あと十分位であの子が出るシーンの練習をするから、見ると良い」
実を言うと、いくら人気舞台演出家の多治見聡だからと言って、僕にはどうしても信じられない部分があった。
彼女は僕の目を見なかった。そして初めの挨拶の時に言葉が上ずったり、口調がしどろもどろの場面も少なくなかった。これでは、本番の舞台でも同じような事が起きてしまうのではないかという懸念を抱いた。
「勝介」多治見はふと口を開いた。しかし、僕はそれに対して返事はしなかった。
「ドラマの次の話をして悪いんだが、この公演が終わったらまた新しい劇をやりたいと思ってる」
僕は多治見の言葉に対して、また特にリアクションもする事無く、小さく口を尖らせた。
「―――どんなテーマ?」僕はようやく言葉を発した。
「恋愛物だ、ウチでは初めてのジャンルになる」
「へぇ、恋愛……か。どうしてまた?」
「ウチも立ち上げて十年経って、少し停滞気味なのは否めない。だからこそ、新境地開拓って感じでさ」
「ほう……保守より改革を選択したか」
「ああ。このまま行っても、自然と小さくなるだけだと思った」
多治見の目は、十年前の設立時に一緒に酒を飲んで夢を語り合った夜の、まさに脚本家と演出家としての道を本格的に歩みだした時の、あの一点を見つめた目に戻っていた。
「あっ、そろそろ練習開始だ。おーい!」そう言うと多治見はイスから立ち上がって、各々が練習をしている稽古場の全体に響き渡るように手を叩いた。
3 駐車場
「じゃあ、シーン54から行こう。用意、はい」
―――気が付けば、既にこの稽古場に立ち寄ってから三時間も経っていた。多治見は要所毎に指示を出し、厳しく指導する。
そして僕もただ突っ立っている訳には行かないので、イメージ通りの台詞回しを皆に求める。さらに皆もそれに応えてくれるので、さすが『東京カピタン』のメンバーたる所以と感心する。そして、僕が待っていた時が遂にやって来た。
それぞれが立ち位置を確認しつつ、彼女はオドオドしながら何度も上を見ていた。役柄は桃太郎が鬼ヶ島から取り戻した金銀財宝を、奪われた各々の元へ返していく中での町娘で、台詞はあると言っても二行程だ。
僕はそれを見て、段々と心配になってきた。「やはりミスキャストなんじゃないか」などどは思わないが、それでも思わざるを得ない位に表情や姿勢が固い。そして、開始を伝える多治見の威勢の良い声が響いた。
「これがあなたの家から、鬼達が奪っていった物ですね?」桃太郎役の団員が言うと、彼女の番がやって来た。
「ええ、でももう―――。あ、ごめんなさい、台詞がちょっと……」
僕は少し驚いたが、「やはり」という感情の方が大きかった。横にいる多治見を見ると、明らかに表情が変わり、直ぐに口を開いた。
「学芸会でやってる訳じゃないんだよ」
「すみません、もう一回お願いします」
「二行の台詞も言えない奴に、与える時間なんかない」
「……でもやらせて下さい、お願いします!」
「中断だ、各自練習」
そう言うと多治見は、稽古場の外へ出て行った。僕が彼女の方へ目を向けてみると、背を向けて肩を軽く震わせていた。周りの団員は特に声を掛けようとはしない。僕は多治見を追って外に出た。
稽古場の隣の駐車場で、多治見は一人タバコをふかしていた。僕が「おい」と声を掛けると、こちらを向いて、短くなったタバコを携帯灰皿に入れた。
「なぁ、初舞台で台詞付きってのは、やっぱり重いんじゃないか?」
僕はトーンを落として多治見に言った。
「重いだなんて、そんな事言ってたら俳優なんて務まらないだろ」
「でも、彼女の場合は引っ込み思案だろ。まずは台詞無しからでも……」
「あいつは他の皆とは違うよ。今までにいないタイプなんだ。だから、勝介の脚本で一緒にあいつを輝かせて欲しいと思ってる」
「―――僕は、贔屓は嫌いだ」
「贔屓だなんて、誰が言った!」
多治見は僕の胸倉を掴んだ。それから少し経ってから、我に返ったように手を離した。
「―――すまない。……やっぱり、傍から見れば贔屓か」
「……僕はお前の演出が誰にも混ざらない、お前だけの色の演出だと思ってる。だけどやっぱり、あの子に対しては少し過剰過ぎてるよ。お前、あの子に何かあるのか?」
「―――何もないよ、ただ、演出家としての底を久しぶりに見せてくれただけだ」
「急いでも仕方が無いだろう。今みたいな事をやったとしても、ダイヤの原石かどうかも分かる前に埋もれるだけだよ」
「……でも、台詞は付ける。それだけは譲れない」
「脚本なら、少し手を加えるけど……」
「それだとお前まで贔屓になるだろう?」と、多治見は僕の発言を制した。自分だけの贔屓ならそれでいいんだ、と続けて無言で言っている様にも感じられた。
稽古場に戻ると、彼女は奥の片隅で必死に台詞を覚えていた。僕達二人が戻ってきたのに気付くと、彼女は走ってこちらに向かって来た。
「もう一度、もう一度だけでもお願いします!」
「高田、鏡を見てみろ。そんな状態じゃ……無理だ」
「次は必ずやりますから」彼女の目は赤く腫れ、涙が滲んだ。多治見はまたもや外に出てしまった。ただ、これは僕に多治見が託したバトンだと感じ取ったから、今度は追わない事にした。そしてこの状況を打開しようと彼女に話しかける事にした。でも、すでに彼女は稽古場に居なかった。
彼女はさっきの駐車場で
「慌てても、良い演技は出来ない。それに練習だから、気持ちを楽にしてやろうよ。失敗なんて気にしないでさ」
「……ありがとうございます。でも、これ以上皆さんに迷惑をかけてしまうのはいけないので」
「今は皆上手く演技をやってるけれど、最初から上手い訳じゃない。きっと分かってくれるから気負わないで行こうよ。まず、とりあえず深呼吸してみようよ。何も考えずにさ」
「え?深呼吸……ですか?」
「ほら、一緒に」と言って、僕は深呼吸を始めた。が、あまりに急に吸い込みすぎたか、思い切りむせてしまった。むせながらも、ちらりと横を見ると、彼女は静かに笑った。
「笑った顔、初めて見た。やっぱり良い顔してるな」
「えっ……そうですか?」
「ああ。やっぱり泣いてる顔は良くないよ、明るくいかなきゃ」
「それは分かってはいるんですけど、でも……」
彼女はそう言うと、次の言葉を出すまいとしているのだろうか、右手を口に当てたまま黙り込んでしまった。
「でも……何?」僕は続きを知ろうと、彼女に話しかけた。
「いつも背中に、視線を感じるんです。気のせいだと言われればそれまでなんですけど、どうしても無視できなくて」
「誰の視線?」
「誰って訳ではないんです。こんな事言ってはいけないのかもしれないけど、劇団の皆さんは私をどう思っているのかって。本当は邪魔だ、とか」
僕は心の底から、何か未知の感情が湧いてくるのを感じた。突発的なそれは、僕に時間的余裕を与える間も無く彼女に浴びせてみせた。
「それで、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げるつもり?」
「……え?」
「それは、皆への不満?ただの文句にしか聞こえない」
「いえ、そんなつもりは……」
彼女は唖然とした表情で、ただ僕の発する言葉に耳を傾ける事も忘れてしまったかのように淡々と話した。
「そんなつもりはないんです。ただ、こうやって劇団に入って演技の勉強をし続けていくうちに、周りを見渡してみようと思って。そうしたら、やっぱり皆さんに迷惑を掛け続けてしまって。だから、皆さんは私を何となく迷惑に思っているんじゃないかって。そんな私に女優になる資格なんか……」
「そんな生半可な気持ちなら、さっさと辞めちまえ!」
僕は彼女の言葉を遮ってそう言うと、彼女を置いて稽古場へと戻った。