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snow thaw

作者: 憂木冷

 しんしんと。

 しんしんと降る雪というのが、どういうものなのか、うまくイメージが持てないでいた。この町には雪が降らない。私が生まれた日に降ったと聞いたことがあるが、それからはもう十八年、降ったことがない。

 さっ、と足の裏で小さな音が聞こえる。

 ビニル袋を小さくつぶしたり、落ち葉を踏んだときと、似たような感じがした。形が崩れるときの音。実際はぜんぜん違う、もっとかすかな音。細かな結晶が崩れて壊れる音。

 畑に挟まれたあぜ道は、白い膜で覆い尽くされていた。

 石灰の撒かれた校庭とは違っていた。ずっと静か。

 これが雪なんだ、と思った。テレビでは見たことがある。だけどその光景は、誰かが雪かきをしていたり、車が事故を起こしたり、荒々しく吹きすさんでいる姿ばかりだ。雪というのは、どちらかというと、ヒトを困らせる災害に近いものなのだと思っていた。

 だけどこれはどういうことなのだろう。

 しんしんと。私の足音を吸い込み。息づかいを吸い込み。すべての音を飲み込み。誰もいない美術館よりも自然的な静寂の景色。

 刻々と白く変わっていく。

「きれい」

 言葉が景色に吸い込まれていく気がした。

 私はこの雪を見て、とても嬉しいと思った。

 ――世界で一番綺麗な生き方をしていけますように。

 たった一つの祈りの言葉を思い出して。

 私は白いため息を吐いた。



「あ、雪だ」

 少女の声が響く。いつも少しだけ悪意を含んでいるような、耳障りの悪い声だった。偏見かもしれないけれど、私にはそう聞こえる。少女のほかに二人の少年がいた。彼女たちは市内の同じ高校に通う同級生だ。

 私はきびすを返してその場を去ろうとした。しかし三人の内ひとりが私に声をかけてきた。

「おい、箕島みしまどこ行くんだよ」

 足が止まる。無視をして立ち去ればいいのに、いつも私にはそれができない。少しだけ震えた太股が歩みを止める。

「なになに、無視?」

 遠藤という少年が私の肩を掴み、背を向けていた私を強引に振り返らせた。あざ笑うような笑みをたたえている。それだけで、萎縮してしまう。言葉がうまくまとまらず。かすれた声で「なにか?」とのどから絞り出した。

「はあ? なにかじゃねーし。同級生に会って挨拶もしないでどっか行こうとするとか失礼じぇね」

 香月こうづきという少女が言った。

 理不尽な言い分だと思った。私たちは友達でも何でもない。いつもこうして勝手に彼女たちが絡んでくるだけだ。できれば関わり合いたくない。私なんて放っておいて、早くどこかに行ってほしかった。

「ホント失礼だわ」

「マジな」

 遠藤と、もうひとり、名前も知らない少年が同調する。

「まったく、親にどんなキョーイク受けてんだし」

 笑みというより、悪意をその顔にたたえて香月が言った。

 そしてわざとらしく「あ、ごっめーん」と続ける。

「そーだ、あんた親いないんじゃん。ごめんごめん、そりゃーこんな非常識に育っちゃうわけだわー」

 甲高い声で笑う。三人で笑う。私の心から楽しい気持ちを奪い取って、そのぶん楽しんでいるようだ。

 ひたすら感じるこの感情が、苦痛なんだと、もう知っていた。知っていて、でもそれをどうにかなくす方法を私は知らなかった。

「今日も相変わらず貧乏臭いかっこしてんねー。あーなんだか貧乏がうつりそうだわ」

 幼稚な嫌がらせの言葉だと思った。だけど、そんな言葉が一番私の心を痛めつけた。



 香月とは高校で初めて知り合った。

 それまでも私は自己主張の弱いタイプだったけれど、こんな風に嫌がらせを受けたことはなかった。本当にふつうに、クラスメイトとは仲良く過ごしてきた。

 高校一年の時、クラスメイトと話している時に、ひとりの少年が私の名前を素敵だと言ってくれたことがあった。些細なお世辞のひとつだ。

 知り合いに同じ名前のヒトはいなかったし、どちらかと言えば珍しい方だったのだと思う。

 ただそれを香月は気に入らなかった。

 自分の好きな少年が、私の名前をほめたことが気に入らなかったらしい。それから彼女の嫌がらせが始まり、私は自分の名前が嫌いになった。



 しんしんと。

 どうしてこんなに早く死んでしまったの。

 両親に問いかけた。

 私は二人と、会話を交わしたことさえなかった。

 香月は気づいていたのだと思う。

 余りに素直に、無抵抗に白く染まっていく畑の姿を見て、少しだけ感情が素直に思考を許している気がする。普段なら考えもしないことを考えている。

 香月はきっと気づいていたのだろう。

 彼女の好きな少年を、私の名前をほめてくれた少年を、私の心がどうしようもなく、引き付けられていたことを。

 だから私が、彼女にとって余計な行動を起こさないように、私の自信を奪っていった。私なんかが、彼にお世辞以上の言葉をもらえるわけがない。そう思わせるために。

 綺麗じゃない、と思う。

 目的を果たそうと努力することは、きっととても美しいことなんだと思う。どんな手を使ってでも目的を果たそうと努力するヒトを、私は否定しようという気にはなれない。だけど、香月のやり方は、努力じゃない。とてもシンプルに努力という言葉を解釈したとき、彼女の行動はそこに含まれない。

 だって、目的を果たすためには努力をするけれど、努力の目的は、目的を果たすことではないから。努力の目的はいつだって自分の成長だから。

 目的を果たすために自分を成長させるから努力は美しいんだ。

 そして、目的を果たせなかったとしても、ヒトを成長させるから努力には価値があるんだ。

 だから香月がやっていることは綺麗じゃない。

 でも私はそんな行いに抵抗することをずっと諦めていた。ただ無難に辛い日々を送ることを選んでいた。それだって無意味ではないのかもしれない。だけど素直に白い雪を見て、私の素直な気持ちは、自分の行いだって綺麗じゃないと感じた。

 ――世界で一番綺麗な生き方をしていけますように。

「綺麗な生き方。は、きっとできていないな」

 声はすべて雪に吸い込まれ、静かに風景にとけ込んだ。

 がんばる理由なんて、なんでもいいのだと思う。なにを理由にしたっていいのだと思う。だって、人間はこんなにもがんばることが苦手なんだから。動機くらい、簡単に見つかるようにできていてもいいはずだ。

 だから私は、この白い天気を理由にしよう。

 生まれて始めてみた、奇跡みたいな雪を。

 私の歩いた綺麗じゃない軌跡を全部見えなくして、前に進ませてくれるこの綺麗なものを理由にしよう。

 雪が綺麗だから。がんばって綺麗に生きよう。

 ――世界で一番綺麗な生き方をしていけますように。

 箕島みしま(ゆき)という名前は、きっとそういう風に付けられたのだから。

 

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