世界の滅亡と少女の言葉
下校の時間のなんとなくドクとのやりとりに浸れる時間がやって来た。
昼休みの2つの出来事については別の方向性を持ってはいるものの頭の整理はしなければなるまい。
世界の滅亡についてと先輩である彼女が僕のことを「お兄ちゃん」と形容したことである。
前者については、最近こんを詰めて研究に没頭している父親と少し話しをした方がよいとドクは言っている。
ただ、実際のところ現実を運営している僕にとっては億劫なのは言うまでもない。
別に思春期特有の親に対する嫌悪感ではないと信じたいが、親に対する信頼と同時にあの事件以降に感じている気持ち悪さがあるのは事実なのだ。
この感情は別段自分の親だけに向けられているものではない。むしろ大人に対する不信感や嫌悪感に近い。
大人のなんとなく「全部わかってます」感は自分の中では不安のタネだ。
優先順位を簡単に明確化し、優先下位を平気で切り捨てる無神経さはとても共感できるものではない。
さらに言ってしまえば、その行動が現実を運営し、前へ進むのに必要な考え方であることが頭の片隅で理解できてしまっている気持ち悪さ。
僕らは大人たちに慎重な姿勢や態度を求められているからかもしれないし、そもそも自らが子供であると言う未熟さを自分の中で規定し、自覚しているからかもしれないが
どうしても優先下位を簡単に切り捨てることが僕にはできない。
決断、覚悟、勇気、そんな言葉を使いながら現実の僕はドクの持つその不安を握り潰しながら生きている。
しかしドクの思いを握り潰している事実は確かに存在するのである。
だが、僕はあの事件を理由にして塞ぎ込んで、これ以上周りに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
常に周りに応え、あの事件を周りの記憶から風化させなければならないのだ。
犠牲という言葉は使いたくない。僕は選択し、責任を持ち、使命を果たさんとしている。
ただそれだけなのだ。
さて、前者の話の着地点が見えたところで後者について…
そう考え出した時、ふと目に飛び込んできた自分の家には明かりがついているのが確認できた。
足を速めよう。…この時間にはまだ父親は基本帰っていないはずである。
だが、鍵を持っている人間は自分と父親だけ。
異常が日常を脚色している。
走りながら何かを期待する自分がいる。
父親が帰ってきたと安堵と言うよりは、自分の都合のいいようにタイミングよく父親がいる可能性が高まったことへの僥倖が足を早めさせたのだった