懐疑という病
隣に「とも」という友人がいる。
奴の家庭は結構複雑で去年の事故で母親と兄を失って、父親も仕事に出ずっぱりだ。
学校では昔からの馴染みがある俺がよく関わってはいるものの
他の交流関係も割と狭く深くって感じらしくそんなに関わりがうまいって感じではない。
なのにもかかわらず今年いきなり学級委員に立候補した。
これには俺も驚いたね。
俺は奴とは長い付き合いしてるから、それなりにともがどんな人間なのかはわかっているつもりだった。
ただ、担任も今年転任してきたばかりで俺たちのことはよくわかってなかったし、立候補だってんで引っ込みがつかなかったのだろう。なによりともはしっかり者だからその場の流れで学級委員に決まった。決まってしまった。
友人の立場からしてみりゃともがどこか無理をしているようにも見えたし、何かおかしくなってるんじゃないかという気持ちがなかったとは言わない。
ただまぁ俺たちも高校2年だし、決まったばかりのリーダーに文句をつけることの無意味さはよくわかっていたつもりだ。
ただ、こうやっていざなってみて少し経ってみると俺の懐疑的な感情が伝染してしまったのではないかと疑うほどに
周囲の反応からはともに対しての煮え切らないような感情を感じる。
仕事ぶりは流石なので信用を失ってはいないのだろうけどもクラスの中に「どのような対応がベストなのだろうか」と疑問符を浮かべながら対応する姿が俺を不安にさせているのだろうと思う。
ともの無理している感が周りに無理させている感を生み出しているのかもしれない。
集団としての意思疎通がうまくいっていない。そんな感じがする。
担任に相談してみたものの「今の彼をみてあげる、評価してあげることが大事」みたいな一理ありそうな話を延々とされたが、
あいにくこちとら中学時代にともではないがいじめを目の前にして何もできなかった自分を悔いている過去がある。
その時もやられている側の様子はいつもと変わらなかった。
目に見えているものだけに気を遣う姿勢は当人や現実を深く見つめない自分を作ってしまうことにそのときに気づいたのだ。
同じ中学のやつらもこのクラスには多く、そのときの経験もあって今のこの雰囲気を作ることになっているのだろう。
おれはこの懐疑という病を治すには担任の言った今のともを見てやることと本当の気持ちを引き出すことだと思っている。
もうともにはこの状況にすでに傷ついていることがあるかもしれないが、
とにかく少しでもともと周りとの架け橋になることを心掛けよう。
さっき担任が3年生に転入生が来るって話していたし、明日は一緒に見に行ってみるかな。