初夏~夜
氷枕ほど冷たくなく一肌より少し冷たい、程よく反発し丁度良いくらいの高さ、そして心の落ち着く匂い。もう二度と手放したくなるような完璧な枕に頭を乗せその上にある何かに無意識的に腕を回していた。
この時の俺は七割がた眠っていて、それが小春さんだとはまるで気づかなかったのだ。
「…………」
「…………」
「……最悪だ」
「甘えん坊さんね」
親の職業柄、こんな風に甘える事は出来なかったしするつもりもなかった。そんな意地みたいなのを張ってたらいつの間にか親は居なくなってひとりぼっち。そんな俺には彼女のしたから見上げる笑顔が、優しく暖かいものに感じれたのだ。
普通の人に彼女は見れないし触ることも出来ない、それはきっと存在しないのと同じなのだろう。しかし俺には見えるし触れる、聞こえるし感じれる、だからそれは存在してると言ってもいいはずだ。
この世に存在して、俺の側に居てくれる人は亡霊だけど彼女が初めてだな。
机の足の隙間から見える外の風景はすっかり夜の帳に包まれ、月明かりが少しだけ照らしていた。晩飯出すか。
「あら、もういいの?」
「俺の黒歴史の一つですよ」
「あんなに気持ち良さそうだったのにね」
「うるせ」
縁側とは反対側の中廊下から台所にいく。今日の晩飯は鰹のたたき、あとは味噌汁でも適当につければそれでいいだろうと、冷蔵庫の野菜室からジャガイモを取り出した。
小春さんが来てから……彼女は最初からいた、だから正しくは見えるようになってからだ。小春さんが見えるようになってから騒がしいとまではいかないが、少しだけ賑やかな日々が訪れ始めた。
こう言うことを皮肉なことというのだろうか。それはまだ片親が健在だった頃より賑やかだ。親が亡くなったとき、確かにくるモノはあった、でも泣きはしなかった。第三者視点で『あぁ、死んだんだ』みたいなまるで他人事のような事を考えるくらいだったし、俺にとってヒトとの繋がりの重要度は例え親子でもその程度と言うことだろう。
「またそんな目してる」
「えっ?」
出来上がった料理を運ぶと、小春さんにそんなことを突然言われた。
「最近はしなくなったと思ったのに、今度はどうしたの?」
「そんな目って、どんな目ですか?」
「……自分の事ですら他人って言いそうな目」
「そんな具体的な目ですか」
原因があるとするなら間違いなく小春さんだ。
この亡霊は落ち着きかけた俺の心をいつもかき乱す、今回もそうだ。彼女と触れ合うと俺はどうすればいいのか戸惑ってしまう、彼女に限らず他人と接触しただけで混乱する。でもどこかでそんな俺を哀れな奴を見る目で見てる俺がいて、本当に気持ち悪い。
だから俺は一人でも、ではなく一人がいい。かき乱されるのは疲れるから。
それからの夕食はこれと言った会話はなかった。でも小春さんは本当に美味しそうに食べてくれるから作りがいがある。食器も洗い終えあとは寝支度をしてさっさと寝るだけになった。
「夏輝」
「なんですか?」
「そろそろ花火が始まるらしいわよ」
「そういや今日でしたっけ」
「夏輝はこう言うの興味ないの?」
「……無いですね。行っても親を思い出してしまうだけですし」
俺の数少ない親との思いでの一つは花火大会だ。まだ幼くてあまり覚えてないけど、親に手を引かれ、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いと、射的に金魚すくいのような出店の立ち並ぶ風景を覚えている。確か出店のリンゴ飴は埃を被ってて汚いって言われて買って貰えなかったんだよな。
花火を見る為の広場は満員で、親におんぶされて見てた。情けない音が数秒すると、突然轟音が空気を揺らし空がパッと明るくなる。
途切れ途切れだが、あの日見た花火の綺麗さだけは今でもよく覚えてる。
「じゃあ、行かないのね」
「……そうですね。花火なら縁側からでも見えますし」
「なら一緒に見ない?」
「見ません」
「そう言うと思ったわ」
本当に効くのかは知らないが、縁側で花火を待ちわびる小春さんのとなりに豚の蚊取り線香を置き、俺はいつもの場所で小春さんの絵になる後ろ姿を眺めていた。
「来年は見に行きましょうね」
「来年もいるつもりですか?」
「扇子が見つからなければね」
なら来年もこんな感じだな。そんな大昔になくした扇子なんて見つかりっこない。
「約束よ」
「何がですか?」
「来年も私がいたら一緒に花火大会に行くこと、約束」
「仕方ないから約束してあげますよ」
「強がっちゃって可愛い」
やっぱりこの人は苦手だ。そんな風に微笑まれると否応なしに反応しちゃうじゃん、しかも小春さんはその事を理解した上で仕掛けてくるからなおたちが悪い。
来年の今ごろには、本来なら俺が高校三年生でそろそろ大学受験に追っかけられてる頃か。まぁ高校の唯一の居場所もなくしたんじゃ、いるのが辛すぎる、だから辞めちまったもんな。
俺、人間としてどんどん駄目になってるな、ハハッ。
「打ち上がったわね」
「ですね」
どんどん沈む俺とは対極的に花火は夜空を、少しの間だけ自信の美しさで明るく照らしていた。低い音が轟く度に夜空は明るくなり、そして何事もなかったかのように暗闇に戻る。
あの頃のように素直にモノを見れなくなったせいか、不思議と綺麗に見えなかった。大人に近づけば近づくほど分からないことは増えて、理不尽なモノや汚い真実を知ることになる。真実が汚いのなら嘘は綺麗なのだろう、だから俺を犠牲にした青春と言う綺麗事は嘘なのだ。
「美味しいご飯が食べれて、綺麗な花火と快適な空間に初で可愛らしい男の子。案外、扇子を無くして正解だったのかもしれないわね」
「こっちは大迷惑ですけどね」
「……夏輝はもう高校いかないの?」
「今更通い直すわけないでしょ。もう寝ます」
これ以上詮索されたくはない。小春さんはずっとこの家にいて、俺の事を見てたから知ってるのか。俺が高校やめたのは小春さんが見えるようになってから二年目だったしな。
中廊下を通って布団と机しかない自分の和室に戻るなり俺は一度も電気を付けること無く布団に潜り込んだ。その日のいつもの枕はどういうわけかやけに寝苦しかったのをよく覚えている。