にゃあの4
エルミラに引きずられた和樹が部屋から出ると、そのまま手を引かれて館の中を歩き回った。
「エルミラ様、いったい何を……」
「人がいない場所に行く」
そうして連れて来られたのは、エルミラの部屋らしかった。
エルミラは周りを見渡し、誰もいないのを確認すると、素早く和樹をその部屋に押し込んだ。
「ちょ、ちょちょ……」
「しずかにっ」
「ナァァっ」
和樹の後ろでエルミラが扉を閉めた。
……そこは、普通の部屋だった。
アスタロトの館の中は、その壁面のほとんどが、気高さのある赤い色だった。
この部屋もそうなのだが、他の部屋に比べると調度品が何もない。テーブル、椅子、それだけ。
ベッドすらないのだ。
(武人の部屋って感じだ。さすが魔剣三宝……)
窓から差し込む淡い光が、優しくテーブルを温めている。和樹の腕の中で子猫が動くと、器用にそのテーブルに飛び移り、丸くなった。
「お、おいおい」
「良い。……放っておけ」
武人然とした声に振り返る。
そこでは、膝と膝をすり合わせ、胸の前で手を握りしめているエルミラが、じっっと子猫の事を見ていた。
(キュンキュンしちゃってるじゃないですかー…)
和樹の目の前のエルミラは、見とれる程に美しい。
黒と白の髪も、金色の目も、真っ白な肌に浮かぶ唇も、途方もなく美しい。
しかも、エルミラは魔族の例に漏れず、和樹よりもずっと歳上のはずなのだが、和樹の目には自分とたいして変わらない少女に見えた。
エルミラは、和樹の視線に気付くと、背筋を伸ばした。
「な、なんだ?」
「……動物、好きなんですか?」
「バカな事を。……魔族はそんなものは好きじゃない。私の主食は生肉と生き血だ」
「そ、そうなんですか……」
(……どうやら、『かっこ悪い』事なのか。アスタロトも、やたらと「魔族が怯えるなど…」みたいな事言ってたしな)
子猫は陽だまりのテーブルで、幸せそうな顔をしていた。すぐそばの窓際に置いてあった美しい鉢植えが、和樹の目に入った。
(……綺麗な花だ。エルミラも女の子なんだな)
その鉢植えの土に、まるで漫画の吹き出しのような形の、紙製のポップが刺さっていた。
そこには何かが書いてある。
(なになに……)
『魔界地獄草 …… 毎日、昼の三時に生き血を撒いてあげましょう。そうすると、深夜に「ィィィァアアア……」と、かわいらしい鳴き声をあげるようになります♪ アスタルテ』
……価値観が違いすぎる。
和樹はめまいを抑えてエルミラに話しかけた。
「エルミラ様、これは……」
「……ああ。それはタルテ様が大切にしている花を、株分けしていただいたのだ。優しいあのお方にお似合いの、可愛らしい声で鳴く」
「ィァアアアアアって?」
「正確には、……ィィィァアアアアアッ!! ってだ」
「そ、それは良いものですね」
「うむ」
帰りたい。
和樹の頭にはそれしかなかった。
「ところでエルミラ様、お話って…」
「む、…ああ、なんというか、」
チラチラと子猫を見ているエルミラは、何かを言い淀んでいる。
触りたいのだろう。だが、言えないのだ。
「……エルミラ様、申し訳ありませんが、トイレに行ってもいいでしょうか。すぐに戻ってきますから」
「ん? ……あ、ああ、そうか。ならその扉を開けて奥だ。……ゆっくりでいいぞっ」
「はあ」
和樹も一人になりたかった。
少し考え事をしている間に、エルミラは存分に子猫を堪能するだろう。
和樹は指でさされた扉を開けると、その奥へと進んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
「さて」
エルミラの部屋から出てトイレに行くつもりだったのだが、そこは廊下になっていた。その廊下に幾つかの扉が並んでいる。
どうやら『エルミラの部屋』といっても、この広大な屋敷の中に作られた、別の家のようになっているらしい。
「マンションみたいなもんか。……じゃあさっきの部屋は玄関って感じなのかな。ベッドすらなかったし」
和樹は、別にトイレに用はなかった。
一人になれる場所ならどこでも良かったので、手近な扉を開いた。
「……ん、ここは」
ベッドルームだ。
部屋の真ん中にピンクの寝台が置かれている。
その可愛らしいベッドは意外に思えたが、そんな事よりも、急いで和樹はその扉を閉めた。
「……こ、こんなとこに居るのを見つかったら、死の予感しか見えない」
こういう時、クローゼットの中に隠れて、見つかりそうになって汗を拭ったら、それがエルミラのパンツだったりするのだ。
そんな事になったら必ず殺される。
「間違いなく、魔界地獄草の上でブチまけられるよ…」
すぐに扉を閉めて、別の部屋へと入る。
……その部屋は、物置のようだった。
部屋の奥に姿見の鏡が立てかけてあり、棚には色々な箱が置いてある。
壁の一面は引き戸になっているし、おそらくその中にも様々な物が置いてあるのだろう。
「……どうせ十分くらいで戻るし、ここでいいか」
女子の家のトイレにこもるのも、考えようによっては失礼だ。
別に、この部屋を漁るつもりもないし、和樹は部屋の床に、直接尻をつけた。
「……あー。しかしビックリしたなあ。猫なんて殺せないもん。けど、」
ひょっとしたら、あの子猫をうまく使えば、自分の境遇を、向上させる事が出来るかもしれない。
(アスタロトは心底ナルシストだから、猫には興味がないらしい。……けど、他の人達は明らかに猫にやられてた)
塵となり消えた、オルドの姿を思い出す。
言葉ひとつ間違えただけで、殺されるかもしれないなんて、人間の生活とは呼べない。
……あの子猫は、和樹にとっての救世主となるかもしれない。
(よし、そうしよう。……俺は、この世界で、平穏に暮らしたい。それで時々エルミラとかに猫を撫でさせてやるだけで、みんな俺に優しくしてくれるかもしれない)
そこまで和樹が考えた時、どこかで扉が開く音がした。
それを聞いた和樹は、つい引き戸を開けて中に隠れた。
(エルミラ? なんだ?)
この部屋にいる時間は、まだ数分しか経っていない。トイレに居るはずの和樹を呼びにきたとしても、早すぎる。
すると、和樹が居る部屋の扉が開かれた。
(い……!!)
——ふんふん、ふふーふ
……機嫌良さそうな鼻歌が聞こえる。
和樹は引き戸の隙間から部屋の中を見た。
——にゃあにゃあ、ねっこねっこ、にゃあにゃあにゃあ〜〜♪
(……完璧に、やられてやがる)
——『光よ』
エルミラがつぶやくと、薄暗かった物置の中に光が溢れた。
引き戸の狭い隙間から、和樹が向こう側を覗くと、エルミラがおもむろにコートを脱ぎ始めた。
(な……っ!!)
エルミラは、黒いコートの下に、金属製のかたびらを着ていた。それも手早く脱ぎさると、ドサリと床に置いた。
その下から現れたもの。
(デッ……でかあーーーーーいっ!?)
真っ白い肌の上に、清楚な白い下着を身につけている。
履いている長ズボンも脱ぐと、やはり白い下着が現れた。
エルミラは、下着姿のままで、脱ぎすてたそれらを綺麗に畳むと、棚の上に並べた。
(な、なっ……ええーーッ!? そんな、エーーッ!? ま、魔族、白!? ちっちゃいリボン……え、エーーッ!?)
和樹は、どっと流れ出した汗を布で拭う。
身動きする度にぶるぶると揺れている胸を、エルミラは忌々しげに見ていた。
棚を覗きながら、何かをしているエルミラの鼻歌にまじり、小さな鳴き声が響いた。
——ミャア?
——あ……
——ナアアオ?
——んーー……!!
エルミラは子猫を優しく抱き上げると、満面の笑顔で頬ずりしていた。
くちびるでつまむように、猫の鼻をついばんでいる。
——かわいいよーーっ!
(同感です……!!)
——ナアア……
——ハチを探してるの? トイレに行ってるからすぐ戻ると思うよ
(ね、猫に話しかけてる……)
ここで、和樹は幾つかの考えに至った。
……なるほど、エルミラは、自分がトイレに行っている間に、着替えを済ませようとしていたようだ。
そして、この部屋は物置であると同時に、どうやら、衣装部屋でもあるらしい。
考えをまとめながら、額の汗を拭う。
——いっしょに着替えようね
——ナアア!?
そう言うと、エルミラは胸の谷間に子猫を挟み、そのまま立ち上がった。子猫から両手を離して部屋着を選んでいる。
挟まれた子猫は、顔だけを谷間から覗かせて宙ぶらりんになっていた。
(……ば、万乳引力……?)
乳トンもビックリ。
(お、落ちないの? それ落ちないの!?)
額から流れ出る汗を、ひたすら布で拭う。
——そろそろおやつの時間だから、一緒に食べようね
——ナアア……?
——なああ〜〜♪
(おやつ……もう三時か。三時になったら、魔界地獄草にも血をやらなくちゃいけないんだっけ)
そこで、和樹は色々な事を悟った。
……どうやら、この物置は、『ウォークインクローゼット』と呼ばれる場所だったらしい。
そして、自分がさっきから汗を拭っている布を、目の前で広げた。
隙間から差し込んでくる光で照らしてみる。
(……これは、ピンクか)
和樹が居る引き戸の中には、幾つかの箱が置かれていた。その中から手探りで、もう一枚抜き出した。
(……みずたま)
下着置き場の中で、和樹は悟った。
……自分は、
部屋の持ち主から隠れて、
クローゼットの中で、
持ち主のパンツで汗を拭いているらしい。
(……今は三時か。魔界地獄草……)
即死不可避。
それを認めた和樹は、ポロリと流れた涙を『みずたま』で拭った。