にゃあの3
「……誰でもいい。早く、この訳のわからん『ネコ』を殺せっ!!」
——いだっ! いだだだだだだっ!!
——ふ、ふえ、ぶえーーっくしょん!!
——ウロウロウロウロ
「パイモン! ……数多の敵を屠りし貴様が、本当にこんな小動物に怯えているのか」
「いだっ! 痛、いたたたたたっ!!!」
和樹が見ている前で、パイモンは六本の腕で己の体を隠した。
……聞こえません、何も聞こえませーん。
そんな感じだった。
「ベルフロー。 ……貴様、実験用の動物を欲しがっていたな。こいつを解剖しろ」
「む、ムリ……ぶ、ぶえーーっくしょっ!!」
『狂学』ベルフローは、同じ魔族からすら恐れられる、狂った魔導師だった。
禁断の秘術の為なら、どれだけの血が流れるのも気にしない女なのだ。
しかし、しかし。
「……やはり、エルミラ。貴様しかおらんぞ」
「あ……」
「やれ。このネコを殺せ」
「あ、あ……」
「ナアア……?」
和樹の手に頬をすり寄せていた子猫が、エルミラの方を振り返ると一声鳴いた。
その声を聞いたエルミラの体が、ビクンッと跳ねた。白い頬は染まり、頭からは湯気が出た。
……エルミラは一度目を閉じると、カッと見開いてから鋭い眼差しでアスタロトを見た。
「……アスタロト様」
「なんだ」
「我が剣は、アスタロト様の敵の為に振るわれます。……このような、小汚い小動物の血で我が剣を穢せと? ……それは、本気なのでしょうか」
「…………」
「本気かと聞いているのです!」
エルミラは、挑むような目つきでアスタロトを見た。主従の誓い。……それを試しているのだ。
「……エルミラ。悪かった。許せ」
「二度と申されませぬよう。……我が剣は、御身の敵を滅する為にのみ振るわれます」
「覚えておこう。……余は、良い剣を持った」
アスタロトが和樹に向き直る。
和樹の視界の中で、アスタロトの背後にいるエルミラが、額の汗を拭うのが見えた。
(……エルミラの野郎、賭けに勝ちやがった!!)
エルミラはコートの胸を大きく開けて、パタパタとその中に風を送り込んでいる。
……あっちー、あっちー、そんな小っこいの、殺せる訳ないでしょ! そんな顔だった。
「ハチ。……やはりお前に頼まねばならんな」
「いや、え……」
「殺せ……」
八蜜和樹は全力で考えていた。
和樹は犬派だ。
が。
(……それとは別に、殺せる訳ねーだろ!? こいつ、何言ってやがんだ!?)
アスタロトは和樹の元に歩いてくる。
その向こうでは、三人が恐ろしい顔で和樹を睨んでいた。
そして、チラチラと子猫を見る度に、口元をだらしなくゆるめた。
(……これだ。日本にいた頃からそうだった。猫はこうなんだよ。みんな猫の前ではこんなんなるんだよっ!!)
しかし、異世界の魔族にまで。
こいつが居れば、世界は救われるのではないか。
……そんな事すら考えた和樹の視界の端で、さっきからずっと同じ形に動いているエルミラの口が見えた。和樹の方を向いて、何か喋っている。
『ど』
(……ど?)
『どーにか』
(どーにか?)
『しろ』
(無理ーーーーーーーーーーーーっ!!)
「貴様、なんだその口の動きは。……余をバカにしているのか?」
「ま、まさかあああああ!?」
「早く殺せ。……余の配下達の様子がおかしいのはこいつのせいだろう。こんな小動物に怯えるなど、魔族として許されん」
(むりむりむりむり……! ど、どうすればいいの!?)
意味もなく動物なんて殺せない。
そして、アスタロトの後ろの三人の目。
…パイモンは、孫を見るように子猫を見ていた。
…ベルフローのだらしなく開いた口から、唾液がつぅっと垂れた。
…エルミラは、こちらをチラチラと見ながらウロウロしている。
(もしもこの子猫が死んだら、絶対に俺があいつらに殺されるっ!! たとえ俺のせいじゃないとしても!!)
アスタロトの向こう側で、パイモンが六本の腕でチカラこぶを作った。
ベルフローが懐から謎の小瓶を取り出して、長机の上に中身を垂らした。じゅう…という音と共に、机が溶けた。
カチン、カチン、カチン……音の方を見ると、エルミラがオーベルルージュを抜いたりさしたりしていた。
……三人の口はこう言っている。
『なんとかしろ』
(だからムリだっつってんだろうが!?)
「おいハチ……やはりバカにしてるのか?」
「あ、アスタロト様っ!!」
「なんだ」
その場にいる者たちは、全員和樹の方を見た。
「え、エルミラ様がさっき言ってました。みなさまは、そんな小動物を殺して自分の価値を下げるのが嫌なのです。それに、歴戦のみなさまは、こんな猫に怯えてなんていません。こんなちっぽけな…」
「誰がお前に考えろと言った。余はお前に意見を聞いたのか?」
異世界に来た途端に頭脳が回転する。
そんな事は今までなかった。
しかし、ついにその時が来たのだ。
数多くの主人公がやってきたように、和樹は全力、全身全霊で考えた。
「猫を殺してもなんの利益もありません。意味が無いのです!
……それよりも、この猫を保護する事により、アスタロト様のご威光が、」
「意味はある。
転生してきた者……例えば貴様の事を保護するのには理由がある。なんで我らが貴様にこの世界の言葉がわかるようにし、住居と食事を与えていると思っている? ……いつか訪れるかもしれん『貴様の世界』との講話の為だ。
なんでそんな事が起こるのかはまだ誰にも理解できんが、この世界と貴様の世界の間には『穴』が空いているのだろう。もしも、いずれその穴が広がり、この世界に侵略行為を始める奴がいたとしたらどうする? あるいはその逆は? この世界から貴様の世界に侵攻を始めたらどうするのだ。
……余は転生者の世界を甘く見てはいない。戦争が始まれば多大な犠牲があるだろう。だから転生者達はこの島……余の領地では保護されるのだ」
「いや、ちょ、」
「この『ネコ』は講話には関係ない。ならば殺す理由も無いと言うか? 理由はある。検疫だ。
……ハチ、貴様がこの世界で発見されてしばらく、貴様は実験紛いの診察を受けたはずだ。
未知の世界からの病、そんなものをこの島に持ち込ませる訳にはいかんのだ。
診察の結果、貴様には異常がないとわかったが、それらにかかった費用は全てが領民の血税から賄われている。……今までの食費や医療代も含め、貴様には数百万使っている。
この『ネコ』にも、それだけの金をかけろと?
領民の血税を使えと言うのか?
……以上が、この『ネコ』を殺す理由だ。反論を述べよ」
「…………カッ、」
死んだ。
俺はあの三人に殺される。
和樹はそう思った。
パイモン、ベルフロー、エルミラ。
三人が殺気を放ち始めると、部屋の奥にある扉が開いた。
「……お兄さま? どうなさったのですか?」
「アスタルテ」
奥の部屋から現れたのは、アスタロトと瓜二つの女だった。
しかし、アスタロトよりも目が柔らかく、胸の部分や腰の線が、少しだけ膨らんでいる。
「お兄さま……まあっ!! なあにこの子は!?」
「そんな下賤を触るな」
すすすっ。流れるようにアスタルテは和樹のそばまで来ると、子猫を胸に抱きしめた。
「ナアア……」
「まあっ……!! なあにこの子は。ハチ、あなたは知っているの?」
「は、はいアスタルテさま……。それは、猫と呼ぶ生き物です」
「ネコ……。なんて可愛らしい……!!」
むぎゅーーっ。
アスタルテがぐりぐりすると、エルミラがキッと唇を噛みしめるのが和樹には見えた。
「お兄さま。……漏れ聞こえる声で事情は分かりました。どうかこの子にお慈悲を……」
「……ふう。お前にそう言われては仕方ない。一億までなら血税を使う事を許可しよう」
「い、一億……」
領民の為だなんだと言っていたアスタロトは、あっけなくそう言った。
「しかしアスタルテよ。今日もお前は美しい。まるで鏡を見ているようだ……」
(……どんだけナルシストなのこのひと。すげーなおい。鏡だらけのこの館といい……)
「ハチ」
「は、はいっ!?」
「そろそろ貴様にも仕事を与えよう。……ならば、このネコの面倒は貴様がみろ」
「お兄さま、それならわたしが……」
「それはさすがに許さん。……ハチ、しっかりやれよ。では諸君、解散だ」
その言葉を聞いて、一番先に立ち上がったのはパイモンだった。
「……ふんっ。この部屋は獣臭くてかなわんわ。ワシは部屋に帰らせてもらうぞ」
「……ボクも帰る。ハチ、その……薄汚い獣を診察するから、後でボクの部屋に来るように」
(お前ボクっ娘なの!?)
ベルフローもパイモンに続くように部屋を出て行った。
「ハチ」
「は、はい。エルミラ様」
「ナアア」
「行くぞ。話がある。……アスタロト様、タルテ様、失礼します」
「うむ」
「ネコちゃん、またね」
腕の中の子猫がナアアと鳴く。
その声を残して、引きずられながら和樹はその部屋を出た。