8.散訪
近畿に、高さが931.3メートルにもなる六甲山がある。六甲山の名前の由来は、難波の津(現在の大阪)の、「向こう(向かい)=ムコ」から来ていると言われている。ムコの湊の北に連なっている山のため、「ムコ山」と呼ばれ、後に「ムコ」に「六甲」という漢字が当てられたのだ、と。
1895年(明治28年)にイギリスの貿易商である、アーサー・ヘスケス・グルーム氏が、六甲山に別荘を建てた。そして、1901年(明治34年)には、日本初のゴルフ場を造ったらしい。六甲山は、神戸に住んでいる外国人の避暑地として開発され始めた、という。
六甲山系は、東六甲から摩耶山、須磨までの山々から成り立っていて、これに、帝釈山系と呼よばれる有馬から帝釈山、三木市までの山々を加えて、六甲山地と呼ぶ。
六甲山系の地層は、そのほとんどが、花崗岩と呼ばれるマグマが地下深くで冷えて固まった岩でできている。六甲山系は東側が高く、西側へ行くにつれて緩やかになっており、また、六甲山地は南側から見ると堂々とした山に見えるのだが、北側や西側からは、緩やかな丘のような形に見えるのだった。
今から100万年前頃から近畿地方の大地が東西から押され、その力で地面が盛り上がってできたという事が、分かっている。
「夜は、展望台の『掬星台』からの眺めが見事で、そこから見える神戸の夜景は、『1000万ドルの夜景』と言われている。掬星台という名前は、満天の星空があまりに近く、星が掬くえそうだという事からつけられた……って、ガイドブックには、書いてるみたいだな、ドンキー」
電車に揺られて、私とドンキーは目的地を目指した。さほど遠くでもなく、行くと決めてからは行動が早かった。場所へ近づいていると温泉があって、ここで一休みしてからでも夜景を見るにはまだまだ時間があるなと思い、休憩をする事にした。
腰にもいいんじゃないか、と思ったのも、理由だった。
思わぬハプニングがそこであった。
中継地で立ち寄った温泉だったが、混浴ではなかったはずだが、私が入ると、誰も居ないかと思ったのに先客が居た。露天の風呂になっていたが、どうも女性。湯煙に隠れて、裸体があらわになる。
そしてその正体が、人間の体つきをした、ドンキーだったのだ。
「ドンキー……」
溜息の様な息を吐いた。堂々と裸を見せつけ、隠そうともしていない。私の体も晒してはいるが、どちらにしてもドンキーに人らしい照れや恥ずかしいといった感覚は無いみたいだった。背筋を真っ直ぐに、格好が美しかった。それに圧倒されていた。
「どうやら、入口が2つで、内装は同じの様です」
もはやどうだっていい事を説明してくれた。私の目は完全にドンキーの柔らかな肉体に奪われていた。「あ、ああ……」それだけが精一杯だった。
2人で岩風呂に浸かりながら、でも早々と出る。生きた心地がしないとはこの事だろうか。ドンキーは美しかった。だが、恐ろしくもあった。前に比喩した事が思い出される、『生きたお人形』とういう表現。顔は無表情、しかし声は笑う。表面との違いに同じ様に謂れもない恐怖を抱いたものだった。
ドンキー、君は、何を考えている?
君の考えを知りたい。ああ、これは。
いつだかに、女性の心を知りたいと思った事が何度かあったが、これほど強く求めていたのは今回で2度目だろう。はじめの女はネットで、それは、憎しみだった。ドンキーに対しては全く違う、これは、この感情は。
「ドンキー」
「はい」
私に続いて風呂から上がったドンキーの胸を突如触った。手の平で、ぎゅう、と、でも優しく押し触れたつもりだった。「あん」
身が固まる。私の身が、だ。「……」無言で、もう一度だけ、押してみた。ドンキーの乳房を思いきり。「あん」反応が、さっきと変わらない。色っぽい声をドンキーの口から発するが、だが機械的だった。「何処でそれを」
するとドンキーが信じたくない事を言ってのけた。
「そう設計されております」
私は沈黙する。彼女を造ろうとした技師は、一体どういうつもりでこのプログラムを? 凶器ではなかったのだろうか?
風呂場と私の温度が一気に冷めたと思い、私は、どうしたものかこの状況を、と頭を悩ませた。それで、私は連続してドンキーの「そこ」を押しまくった。「あん」当然、規則正しくドンキーは、「あん、あん、あん、あ、あ、あ、あっ」と反応している。
ちょっと楽しかった。それだけ。
着替えをまとい浴場から出ようとすると、男の客とすれ違った。ガニ股で歩いてきて黒い長髪が汚らしく、体臭の臭い男だった。髭面だった。私は急に恥ずかしくなって慌てて小走りで去る。先ほどのプレイ……をもし他人に見られていたなら、恥ずかしい事この上ないと自分のチキンさをただ呪った。
様々な夜景スポットが点在する神戸夜景の中でも、六甲山・摩耶山からなる山エリアは1000万ドルの夜景と称賛されるほどだ。日本トップレベルを誇るビュースポットが点在し、光輝く神戸市街はもちろんの事、大阪湾まで続く美しい光の湾曲が一望できる。
ロープウェイ乗車中と展望スポットからの眺望、2つの楽しみ方ができるという布引ハーブ園のロープウェイへと乗り込んだ。
「うわ……」
展望プラザからの夜景を見た私は、ライトアップされた街並みに、感激したものだ。声を上げてからドンキーの方を見たが、彼女の目にはどう映る。
「綺麗だろ?」「はい」
「なら、よかった」
ここまで来た甲斐があったと思いたかった。私は、ドンキーの体を引き寄せて、顔をいきなり近づける。
それでも、ドンキー、彼女はされるがままで抵抗する意思は微塵もなく、私の――俺の、大事な部分に触れてくる。他人は絶対に入れない心の隙間。ドンキーは、目を閉じた……。呼吸が止まりそうだった。だが……。
「それも『設計』通り、なんだな」
嫉妬の様なもんだと思う。思い通りにいかない嫉妬。彼女の全てを手に入れたいといつの間にか思う様になっていたのに、背後には、彼女を造った(設計した)技師の支配がある。彼女の口から奴の事がでるたび、俺はさい悩まれて、どうしていいのかが分からなくなる。キスをする。戸惑いと焦りの。
儀礼のキスを。
彼女の、唇に数秒間。
「……帰るぞ」
俺はドンキーの身を離した。
私は何度、悪夢を見続けているのだろう。好きな女性と分かっても、裏切り、別れ、嫉妬、と、悪夢を避ける事は不可能なのか。私は恋愛をしちゃいけないと、不幸を回避するためのルールを定めなければいけないか。
ドンキーに対しては、複雑だった。彼女はまず、人ではない。なのに、人の成りをしている。厄介といえば厄介だった。見えない壁を前に立ち往生しているのだった。
日帰りの旅行から帰ってくると、深夜に差しかかるというのに、誰かが訪ねて来た。こんな時分にと不気味に思いながら、私が玄関に出る。「どちら様で」ドア越しに聞いた。チェーンはつけたままで穴から外を覗く。どうやら女性の様だった。
普段着に見えるが、エプロンをしていた。近所の誰かだろうか? 手には紙袋を持っている。「大家の娘の、真奈美といいます」と自己紹介をしていた。
私はドアを開けて、「どうしました」と声には出ずに顔で表した。「あのう、まずこれを……」手の紙袋を渡した。中には、黄緑色の蓋のタッパーが入っていた。
「今晩で作った佃煮です。すみません、こんな夜遅くに。お母さんがどうしても今日中に持ってけって煩いもんだから。あ、あたし娘の真奈美で、久しぶりに帰ってきたんですけど」
「そうでしたか。わざわざ」
「腰を痛めてるって聞いたんですけど。大丈夫なんですか? しばらくこちらに居るので、よかったら遠慮なく言って下さいね。料理は得意なんです」
「へえ、ああ、まあ。どうもすみません」
大家さんに話したっけか。忘れてるが、もう噂は広まっているかもしれないな。仕事、今後どうしよう。嫌な事を思い出してしまったと腰をさする。
「この通り大丈夫なんですよ。まだ仕事をやり始めたばかりなので、疲れが溜まっていた上に不摂生だったもんだから、神経に触ったかもしれません。体が資本だし、気をつけないとね。ははは」
愛想を浮かべ、私は繕った。職場でもこうして孤立はしない様、心がけている。凄く疲れる原因にもなるのだが。
「あら」
ふいに、真奈美さんが何かに気づいた。部屋の中を見ている。私越しに見たものは、奥の部屋でこちらをうかがっているドンキーだった。
「ああ……姉です」
名前を言いかけて、やめた。『ドンキー』では怪しまれる。後で考えておかないといけないな。
「そうでしたか。あたしてっきり」
真奈美さんも言いにくそうに頭を掻いている。恋人とでも思ったのかもしれない。
「じゃ、あたしこれで。夜にすみませんでした」
「ああ、はい。こちらこそ」
適当に話を切って、それで別れた。ドアを閉じて部屋に戻ると、ドンキーがこちらをまだ見ている。「何だ?」つい聞かずにはおれなかった。
「いえ」
私からタッパーを受け取り、それを見つめる。何か変だな、とは思ったが気にしないで私はテレビのチャンネルを変えていた。娯楽番組ア○トークが始まっていた。
「優しそうな人だったな」
ぽつりと、会った印象を洩らす。芸人の話に爆笑していた観客の声とそれは混ざった。ドンキーの耳に入ったかは、知らない。
もうすぐ、契約の猶予が切れる。
早く、決断しなければ。ドンキーのために。ドンキーのため?
違う。
……俺のためかな。
寝て起きて、その日は、俺にとって、大事件となるだろう。
これまでに積もり積もった念が、俺や凶器を使って、解き放たれる。
楽しみだ。ついに実行に移す時がきた。
他人なんざ知らない。人の幸せなんて知った事か。潰してやる。
間違った世の中を。腐った根性の上でのうのうと生きている奴らを。
暗い部屋で髭を生やした男がひとり。
手には鋭く光る、研がれた刃の凶器を持っていた。




