廃墟の街の夢
その日は、午前中から雪が降っていた。
真っ白な空から小さな粉雪が尽きるともなく降り続ける。ひび割れた道路はうっすらと雪化粧を始めているが、吐く息は白くはならなかった。
男が歩いている大通りには人影もなく、壊れた自動車や倒れた街路樹の他見える物もない。窓は割れ鉄骨もむき出しになった建物と建物の間、薄暗い路地にはネズミの死骸が転がっていた。
あれからどれ程の時間が流れたというのだろうか。かつてこの町にはたくさんの人が行きかっていた。大通りに並ぶショーウインドーの前には何人もの人がいた。
男はガラスの散らばった道路の上を歩き、割れたショーウインドーから道路に倒れ込んでいた一体のマネキンを跨いだ。
この町に彼女はいる。
男はそっと通りを進んで行った。
その日の早朝の事。ある寒々しい部屋の中で女が激しく咳き込んでいた。
げほげほと咳き込むのを抑えるように口に当てた手からは血が零れ落ちる。
背中を丸めながら女が痛々しく咳き込んでいるところに父親と見える男が飛び込んで来た。男は彼女に薬と水を入れたコップを渡して、優しく背中をさすってやっている。
青白くやつれた娘の顔を見つめるのがつらかったのか、男は窓の外へ目をそらした。
空の上を灰色の雲が滑る様にして流れてゆく。
もうじき雪が降るかもしれない。彼女の父親はそう思った。
それから約半日が過ぎた今、男は廃墟と化した町を歩きながら彼女の事を考えていた。
戦争が勃発してもう数年が経つ。軍で過ごしている間に故郷がこうまで変わり果てているとは思いもよらなかった。
自分のよれた軍服を見て、彼女に笑われるかな、と男は思った。
男は道の向こう側から見覚えのある影が歩いて来るのに気がついた。
「裕子……」
男はその影に呼びかけた。
「進治…?」
女は驚いたような、それでいて悲しげな表情を浮かべた。
「お前どうしてこんな所に……。体は…体はもう大丈夫なのか?」
「ええ、もう大丈夫。でも、それよりあなた、どうしてここに」
男は一瞬言葉に詰まったが、すぐ顔に笑みを浮かべてみせた。
「ああ、休暇だ。久しぶりにお前の顔が見たくてここに来たんだが」
「ひどい変わり様でしょう」
「ああ」
「ほとんどの人がこの町を捨てて出て行ったわ」
「…だろうな。でもお前が元気そうで何よりだ」
そう言って微笑みながら男は女の髪を撫でた。
「ねえ、あなた。あの公園に行ってみない?」
まだ雪が降り始める前の事、娘の父親は、娘が薬を飲みきっても一向に症状が良くならないのを心配げに見守っていた。
「裕子、大丈夫か。待ってなさい、今何か暖かいものを持ってきてやるから」
そう言って父親が立ち上がろうとすると、彼女はその袖をぎゅっと掴んだ。
咳が止まらないため声を出す事は叶わない。
「裕子……」
父親はベッドの傍らにそっと座ると、両手で娘の手を握ってやった。
進治と裕子は廃墟の街の中を公園へ歩いた。
いつだったか、二人はこの街をこうして一緒に歩いた事があった。その時、進治は軍服など着ていず、裕子も今よりずっと活気に満ちていた。
当時は力強い新緑に覆われていた公園の木々も今はなぎ倒され、残った木からは葉が落ち、くすんだ枝がむき出しになっている。
二人は壊れかけたベンチに寄り添うように腰掛けた。
「そう言えばお義父さんはどうしたんだ」
「家にいてくれているわ」
裕子はそっと目を伏せ、進治のよれた軍服の袖を握った。
「そうか」
見れば、荒れ果てた公園に雪が積もり始めている。
風は無かったが、雪は何かに揺れながら舞い降りていく。
「こりゃあ夕暮れには積もるだろうなあ」
誰へともなしに呟いたその言葉は、二人しかいない公園の空へと消えていった。
「お父さん、ありがとうね」
ようやく咳が止んだ時、息苦しい中必死に娘がそう言うのを、父親はやるせない思いで見守っていた。
もう大丈夫だからと彼女が背中をさすってやっていた手を止めたので、少し安心した彼は窓に目をやった。
何かがひらひらと窓の外を落ちてゆく。
「ごらん裕子。雪が降ってきたよ」
窓の方に歩み寄りながら彼女の父親はそう言った。
彼女が窓に目をやると、小さな粒が光ながら窓を擦っているのが目に映った。
父は病に臥している娘に本当に尽くした。彼女の母親は戦争が始まる前に亡くなっていて、彼女自身も戦争が始まって間もなく倒れた。
彼は町が爆撃にあった時も彼女の傍を片時も離れず、廃墟と化した街を住民達が捨てて去ろうとした時も、長い移動で彼女の体に負担をかけまいと街に残る事を選んだのだ。
「冷え込むだろう。何か欲しい物はあるか?」
父親がそう言って娘の方に振り返ると、瞳を閉じている娘の姿があった。
「裕子……?」
公園では、進治と裕子が昔話をしている。
進治は蘇る思い出の懐かしさに胸が苦しくなった。
二人はまるで自分達が今いるこの場所が、昔に戻っていくような気がした。
えぐれた土も平らでその上に子供達が遊んでいた時代、緑の木の下を一緒に通り過ぎたあの時代が、戦争で消えてしまったこの街に戻ってくるような気がした。
「雪なんて何年ぶりだろうな」
「さあ……五年ぶりかしら。それとももっとかも」
「その時もこうしてお前と雪を見たんだろうか」
そっと裕子を抱き寄せながら進治がぽつりと言った。
「ええ、多分」
裕子はそっと目を閉じた。
「裕子! 裕子!」
娘の体を揺さぶりながら父親が叫んだ。
さっきから娘は瞳を閉じたままで微動だにしない。
「裕子! 目を開けなさい! 裕子!」
自分の腕の中でその体が冷たくなっていく。
雪だからだ。
今日は冷え込んでいるからだ。
「裕子! すぐに暖かいもの持ってきてやるから…な? 裕子?」
しかし裕子の瞳が再び開かれる事はなかった。
進治が立ち上がった。
「そろそろ街を出ないとな」
「私も一緒に行きたい」
裕子が進治の顔をじっと見つめる。
「何言って…そんなこと出来ないのはわかってるだろう」
「出来るの」
すっと立ち上がった裕子は進治の体に手を回して言った。
「きっと行く場所は同じよ」
娘の亡き骸が横たわるベッドにもたれかかるようにして父親が泣いている。もう半日も彼は泣きつづけていた。
もうじき戦争はこの国の敗北で終わる。
もはや戦闘などほとんど行われていはしないというのに、春の訪れは余りにも遅過ぎた。
ふいに、電話が鳴る音が聞こえた。
彼はしつこく鳴り続ける電話を取ろうと立ち上がり、部屋を出た。
受話器を取ると、受話器の向こうから事務的な声がする。
その言葉を聞いた彼は、力なく冷たい床に座り込んでしまった。
娘の夫が、戦死したのだ。
娘の亡き骸が横たわる部屋の窓辺で父親は泣いた。
止まる事を知らぬ涙が溢れてやまない。
一組の若い夫婦がこの世から姿を消したのだ。
涙が枯れることなど、あるはずがなかった。
ひんやりとした冷気が窓の外から伝わってくる。
今夜は雪だ。
冷たい夜が来る。
彼が泣くその窓の外には、止まない雪が舞っていた。
浅く積もった雪を踏みしめながら二人がその下の通りを歩いてゆく。
二人の吐く息はもはや白くはならない。その体に熱が燈る事ももうないのだ。
街の外れに辿り着いた二人は、最後に一度だけ街を振り返った。
今は無きその街の面影に鮮やかな思い出が重なる。
進治はそっと裕子の肩に手を添えた。
裕子はその手に自分の手を重ね、ゆっくりと頷いた。
「行こう」
二人は街を後にし、彼方へと消えていった。
果てるともなく降り続ける、その雪の彼方へ。