第10話:銭湯
個別訓練の初日。雲ひとつない青空の下、私は訓練場の奥で副隊長と向かい合っていた。
「はあっ……!はあっ……はあっ……!」
「えっと……大丈夫か?」
膝に手をついた瞬間、額から汗が滝のように滴り落ち、地面を濡らす。
返事をしたいのに息が整わず、荒い呼吸音だけが響いた。
「はぁ……!この前は、新人に無理はさせないって言ってたのに!これ、絶対キツすぎます……!」
「いや、その……思ったより藍沢が動けるから、ついな……」
肩で息をしながら睨みつけると、副隊長はバツの悪そうな顔で目を逸らした。
私は汗と砂でボロボロ、なのに本人は息一つ乱さず涼しい顔をしている。
午前から始まった個別訓練は、昼休憩を挟んでもう四時間以上続いている。
最初は丁寧に身体強化のコツを教わっていたのだが、
(力を入れたい箇所に魔力をぐっと集めて、タイミングよくバッと動く)
……と、副隊長の説明は抽象的すぎて全く分からなかった。
結局「慣れろ」の一言で、私は副隊長の攻撃をひたすら避け続ける羽目になったのである。
「でも、動きはだいぶ良くなったぞ。最初は直撃コースだった拳も、今じゃかすめる程度だし」
「そりゃあ、骨が砕けそうな勢いで殴りかかってくるんですもん!必死に避けるしかないですよ!」
「ははっ!正面から当たりそうになっても直前で止めるって。女の子を傷つけるのは訓練中でも避けたいからな」
「そ、そういう問題じゃないですってば……!」
副隊長は愉快そうに笑い、私はジト目で睨む。
確かに副隊長ならば寸前でも拳を止められるのだろうが、風を切って迫ってくる拳の恐怖は尋常ではなかった。
肉体的にも精神的にもクタクタだ。それでも最後の方は、相手の動きを予測して避けられる瞬間もあり、確かな手応えは感じていた。
だが、やっぱり達成感よりも恐怖のほうが勝っている。思い出してぶるりと震えたとき、副隊長が唐突に声を上げた。
「よし!今日の訓練はここまでにして、風呂でも行くか!」
「……えと、基地のシャワーですか?」
「いいや。近所の銭湯だ。この時間なら貸切だろうしな」
「えっ、そ、それって――」
“勤務時間中にそんなことしていいんですか”と言いかけたが、副隊長は既に歩き出していた。
ご機嫌な様子に呼び止めるのもためらわれ、私は慌ててその背中を追った。
◇ ◇ ◇
「ふぅ〜、やっぱり仕事終わりの銭湯は最高だなぁ」
「いや、まだ勤務時間内ですから……」
少し熱めのお湯に浸かりながら、副隊長は気持ちよさそうに伸びをする。
思わず視線が胸元に吸い寄せられそうになり、慌てて逸らした。
制服越しでは分からなかったが、副隊長は長身に加え、胸まで豊かだった。
まさに理想的な体型である。控えめな自分と比べて落ち込みそうになるが――せっかくの銭湯で精神的ダメージを負うのも馬鹿らしい。
気を紛らわせようと視線を泳がせる。ここの銭湯は昔ながらの外観に反して、内装は清潔感があり広々としている。
時間帯のせいか女湯は完全貸切。少し熱めの湯が全身を包み、疲れがじんわりとほぐれていく。
にごり湯のおかげで裸の恥ずかしさを意識せずに済むのもありがたい。
ふと隣に座る副隊長に目を向けると、湯に浸からないよう結んだ髪から何本かが垂れ、濡れた一房が首筋に貼り付いていた。
その光景がやけに官能的に見えて、思わずごくりと唾を飲む。
……いや、別に私はそういう趣味があるとかではないのだが、なぜかそこに目を引かれてしまうのだ。
昔、「男は大きな胸の女性と話すとつい視線がそこに吸い寄せられる」と聞いたことがある。
今の自分の視線のさまよい方は、きっとその感覚に近いのだろう。
顔も覚えていない芸能人の言葉を思い出し、妙な親近感を覚えていたその時、不意に副隊長が声をかけてきた。
「………藍沢、視線って案外気付かれるものなんだぞ」
「わっ!!す、すみません……!!!」
「巡回任務の時もそうだったけど、藍沢は人をじっと観察する癖があるよなぁ。まぁ、私もこの髪と目だから注目されるのには慣れてるけど。……そんなに気になるなら、一度気が済むまで見てみるか?」
「えっ……と、それってどういう……?」
実際に見ていたのは別の部分なのだが、さすがに正直に言えるはずもない。
曖昧に笑ってごまかしながら、言葉の意味を聞き返そうとしたその時――副隊長が不意に身を動かした。
浴槽の湯がばしゃりと揺れ、私の目の前に影が迫る。
次の瞬間、浴槽の壁にもたれていたはずの副隊長が、いつの間にか私の正面に移動していた。
小窓から差し込む陽光を受けて、アメジスト色の瞳が至近距離で煌めく。
「ッッ!!?」
「ほら、私の髪と目の色が気になるんだろ?遠慮せず、正面からよく見てみろ」
「えと……あの……ううぅ…………」
情けない声しか出せない自分が恥ずかしい。けれど、それ以上の言葉は喉につかえて出てこない。
両手を浴槽の縁に掛け、副隊長はまるで私を囲うように身を寄せていた。
肌は触れていないはずなのに、足を跨ぐその体勢は否応なく距離を奪い、わずかにでも動けば肩や太腿が触れてしまいそうだ。
石のように固まった私を眺めて、副隊長はにやりと唇を歪めた。
そして、右頬へ副隊長の手のひらが触れる。
熱い。頬に触れているのは肌なのか、湯気なのか。
さらに顔が近づき、視界のほとんどを副隊長が埋め尽くす。
鼓動が限界まで跳ね上がり、今にも意識が飛びそうになった――その時。
カラカラッと扉の開く音が浴室に響いた。
「あらヤダ、一番風呂だと思ったのに先客がいたわぁ〜」
「一番風呂ってアナタ、もう夕方よ?なに言ってんのよ!」
「ヤダ、本当だわ!」
アハハと笑いながら、五十代くらいの女性客が二人入ってきた。
まだこちらの様子には気付いていないようだが、この距離感を見られたら――と血の気が引いた瞬間、副隊長は驚くほど冷静に私の上から退き、何事もなかったように隣へ移動する。
「悪いなぁ、夕方の一番風呂は私がもらったよ」
「あらあら!!副隊長さんじゃない!この時間にいるなんて珍しいわねぇ」
「あらほんと!最近めっきり会わなくなったから、もう来ないのかと思ってたわ!」
「ははっ、仕事中に銭湯はダメだって隊長に叱られてなぁ。今日は新人がいるから特別だ」
「まぁ!副隊長さんが来ないと、あたしたち寂しいのよ〜」
楽しげに会話を弾ませる副隊長を、私は呆然と見つめていた。……いや、呆然としている場合じゃない。
今の言葉、つまり今こうしているのも本当は規律違反では……!?
慌てて副隊長を見やるが、当の本人は涼しい顔で女性客と談笑を続けている。
とてもじゃないが、この場で「早く戻りましょう」とは言えなかった。
◇ ◇ ◇
ブオオォオオオ――――――
「ふわああぁあ〜〜〜……」
「おーい、あんまり風に当たってると体調崩すぞー」
「ふぁい〜」
脱衣所の巨大扇風機の前に座り込み、私はぐったりと風に当たり続けていた。
思わず間の抜けた声が出てしまう。
結局あの後も副隊長は女性客とのおしゃべりに夢中で、私は湯に浸かって待つしかなかった。
そのせいでしっかり逆上せてしまったのだ。
火照った体を心地よく冷ましていると、背後から気配が近付いてきた。
「こら、風邪引くって言ってるだろ。早く髪を乾かしてこい」
「わわっ!」
ふいにタオルを頭から被せられ、わしゃわしゃと乱暴に拭かれる。
振り返ると、もう制服に着替え終わった副隊長が立っていた。
困ったような、でもどこか楽しげな表情を浮かべている。
「藍沢は大人びて見えるけど、案外子どもっぽいところもあるんだな」
「うぅ……そ、その……後は自分でやりますから……」
恥ずかしさにタオルを奪い取ると、逃げるようにドライヤーのある鏡台へ。
背中で副隊長の笑い声が響き、それをかき消すように私は慌ててドライヤーのスイッチを入れた。
◇ ◇ ◇
銭湯の帰り道。下校中の中学生たちとすれ違いながら、のんびりと基地へ戻る。
昼間よりひんやりとした風が、心地よく頬を撫でていった。
「いや〜、久々の銭湯は最高だったなぁ」
「……それは分かりますけど。本当に隊長から叱られたりしないんですか?」
「大丈夫大丈夫。“訓練で疲れた新人を労うため"って言っておけば問題ない」
「……まさか、銭湯に行きたいだけで私を口実にしたんですか?」
ジトリと視線を送ると、副隊長は笑ってごまかすだけで答えない。
呆れて溜息を吐きつつも、正直、私自身も楽しかったから強くは言えなかった。
「隊長は許してくれなさそうだな〜とか考えてただろ?」
「!え……と、その……」
「ははっ!まぁ無理もない。どう見ても堅物だしな」
「そ、そこまでは思ってませんよ……!」
「大丈夫だ。隊長は確かに頭は固いけど、優しいところもあるからな」
「そうなんですか……。隊長のこと、よくご存じなんですね」
「まぁな。長い付き合いだから」
副隊長の口調は軽いが、その横顔には確かな信頼の色が見えた。
「まぁ、叱られたとしても……私は巡回任務の時の仕返しができたから満足だけどな」
「?…………あっ!!えっ、まさかあれ、根に持ってたんですか!?」
初めての巡回任務の日。副隊長を照れさせてしまった、あの時のこと。
まさか風呂場でのあれが仕返しだったなんて。
……大人げない。でも、効いた。めちゃくちゃ効いた。
「さあなー。ほら、そろそろ戻らないと本当に叱られるぞー」
「ちょっ!待ってくださいよ〜!」
風呂場の出来事を思い出し、頬がまた熱を帯びる。
慌てて副隊長の背を追いかけるように、私は小走りで駆け出した。