3 君は
それは地獄のような翌日だった。
目覚まし時計の電子音が、遠い夢の底から俺を引きずり出した。
しかし、それはいつもの優しいメロディではなく、まるで俺の鼓膜を直接叩きつけるような、耳障りな、機械的なノイズに聞こえた。跳ね起きると同時に、胃の奥からこみ上げてくる吐き気で、俺は慌てて洗面所へ駆け込んだ。何も出てこない。昨夜から、俺は何も胃に入れていなかったから。ただ、苦い胆汁のような液体が、喉の奥を焼いた。
鏡に映る自分の顔は、見るに堪えなかった。生気のない、血の気を失った顔色。クマが深く刻まれた両目には、まだあの夜の黒煙と、オレンジ色の閃光が焼き付いている。瞳の奥には、恐怖と、拭いきれない自責の念が、昏い澱のように沈んでいた。口を開けば、まだ火薬の焦げ付く匂いがする気がする。それは幻覚か、あるいは、体中に染み付いた現実の残り香か。
俺と彩花は、文字通り幼馴染だった。
初めて会ったのは、物心つくかつかないかの頃、親父の工房の裏手にある小さな公園だった。俺は砂場で遊んでいたけれど、すぐに飽きて、親父の作業場の隙間から中を覗いていた。そこへ、お団子頭の小さな女の子が、俺の隣にちょこんと座った。それが、彩花だった。
「ゆうくん、これ、花火?」
彼女が指差したのは、俺が父の真似をして、砂で作った、いびつな形の花火玉だった。
俺は「うん」とだけ答えた。すると彩花は、その砂の花火を両手でそっと持ち上げ、キラキラした目で俺を見た。
「すごいね!ゆうくん、花火作れるの? 私、花火大好き!」
その時の彼女の瞳は、まるで俺が作った砂の花火が本当に夜空に打ち上がったかのように輝いていた。
俺が父に叱られても、花火が怖いと思っても、彩花はいつも俺の隣にいた。俺が作った小さな火花を、誰よりも真剣に見てくれたのは彩花だった。
小学校に上がってからも、俺たちはいつも一緒だった。学校からの帰り道、彼女は俺の工房の前で立ち止まっては、
「今日もお父さんの花火、頑張ってるね!」
と無邪気に声をかけた。俺にとって、彩花の存在は呼吸をするのと同じくらい当たり前で、まるで俺の半身のようだった。
彼女が隣にいることが、俺の世界の基盤だった。
中学、高校と成長するにつれて、俺たちの関係は自然と恋へと発展した。
初めて手を繋いだ夏祭りの夜、初めてキスをした河川敷のベンチ。どれもが、彩花と一緒だったからこそ、色鮮やかな思い出として、俺の心に刻まれている。
彼女が俺の隣にいることが、俺にとっての「平和な日常」そのものだった。
来年の夏も、その先も、ずっと一緒に花火を見て、他愛のない未来を語り合う。そんな未来が、俺には当たり前のように見えていた。
家の中は、尋常ではない空気に満ちていた。いつもなら朝早くから工房で響くはずの、親父の作業の音は一切しない。昨夜の事故のせいだろうか、家全体が深い沈黙の中に沈み込んでいる。その沈黙が、かえって俺の心を圧迫し、息苦しさを増幅させた。
リビングに下りると、親父が一人、テーブルに突っ伏していた。背中が丸まり、その大きな体が、ひどく小さく見えた。いつもの威厳に満ちた職人の背中とは、かけ離れた姿だった。
食卓には、誰かが作ったであろう、ほとんど手付かずの朝食が置かれていた。トーストの焦げた匂いすら、昨夜の火薬の匂いを連想させ、俺の胃を不快にさせた。
親父が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、俺のそれと同じく、深い疲労と絶望に染まっていた。しかし、俺を見るなり、その瞳に一瞬、怒りにも似た感情が宿ったように見えた。
「裕介……」
彼の声は、昨夜の轟音でかき消された俺の叫び声のように、かすれて、ほとんど聞き取れなかった。
それは、俺が花火師の道を歩むと決めてから、初めて聞いた、親父の弱々しい声だった。
俺は返事ができなかった。
喉が、粘りつくような感覚で塞がっていた。親父の視線は、俺の背後にある、あの工房へと向けられているようだった。そこには、俺が継ぐはずだった、あるいは、継ぐことを期待されていたはずの「北煙火店」がある。昨夜の事故の原因がまだ不明瞭な今、彼の中に渦巻く感情は、果たして息子への失望か、それとも事故への深い自責か、俺には分からなかった。いや、分かりたくなかった。
俺の心には、昨夜の光景がフラッシュバックしていた。
人々に押し流されながら、俺の手から離れていく彩花の手。そして、黒煙の中に消えていった彼女の姿。なぜ、あの時、もっと強く手を握れなかったのだろう。なぜ、声を枯らして助けを呼べなかったのだろう。そして何より、なぜ、俺は花火師として、あの危険を予見し、回避することができなかったのだろう。
俺の無力さが、俺自身の存在を否定する。身体中の細胞が、俺を責め立てる。
テレビのニュースが、現実の冷たい断片を突きつける。画面には、昨夜の河川敷が映し出されていた。焼け焦げた地面、散乱する瓦礫、立ち入り禁止の黄色いテープ。そこは、つい数時間前まで、俺と彩花が未来を語り合った場所だったとは思えない、無残な光景が広がっていた。
『昨夜午後8時15分頃、三波市で開催された夏祭り花火大会において、未曾有の打ち上げ事故が発生しました。複数の花火玉が、打ち上げ筒内で異常破裂を起こし、一部が観客席へ落下。現在までに、死者8名、重軽傷者50名以上が確認されています。』
アナウンサーの冷静な声が、俺の耳には遠く響く。
死者8名。その数字が、俺の心臓を直接掴み、握り潰すかのようだった。50名以上。俺は、あの群衆の中にいた。2人がいた場所は、まさにその「観客席」だった。
『事故原因については、現在も調査中ですが、警察と消防の発表によりますと、花火玉の製造過程における初期不良、または筒の老朽化によるものと見られています。また、打ち上げを担当したのは、地元で代々続く「北煙火店」で……』
俺の耳が、その言葉を拾った瞬間、血の気が引いた。北煙火店。それは、俺の家だ。親父だ。
画面に映し出された、無残な打ち上げ筒の残骸。それは、見慣れた親父の工房の製品だった。俺の家が、この惨劇の原因だというのか。
親父は、何も言わない。ただ、その沈黙が、俺の言葉を否定しているように感じられた。
俺達の間には、あの花火の爆音よりも、はるかに深く、埋められない溝ができてしまったようだった。
俺は親父の顔を見上げることができなかった。花火師としての親父の存在そのものが、俺には耐え難かったから。
町の様子も、昨夜とは一変していた。祭りの名残の提灯は、まるで骸のように打ち捨てられ、見る者を凍えさせる。喧騒は消え失せ、代わりに響くのは、時折聞こえる報道ヘリの不気味な低音と、遠くで聞こえるサイレンの音。そして、どこからともなく聞こえてくる、かすかな嗚咽。近所のおばさんが、俺の家の前を通りかかった時、怯えたように目を逸らすのが見えた。まるで、俺が、この惨劇の原因であるかのように。
「花火なんて……花火なんて、もう……」
俺は、誰に聞かせるでもなく、震える声で呟いた。
それは、俺の中で、花火という存在そのものへの憎悪が芽生えた瞬間だった。かつて「家業」として当たり前だったものが、今や俺の人生を破壊した「爆弾」以外の何物でもなくなっていた。
俺の耳には、花火を称える人々の歓声ではなく、あの時の悲鳴と、彩花の最期の声が、こだまのように響いている。
読んでいただきありがとうございます。
最近は、夏のホラー2025に投稿するために、水に関するホラーを沢山考えています。
ホラー小説は、お化けが襲ってきたりとか怪奇現象とか多いと思うんですけど、俺はそんな空想のような話ではなくて、人間が怖い。みたいな、そんなホラーが好きです。人間の狂気って怖いですよね。
また、次話も読んでくれたら嬉しいです!