2 惨劇
そして翌日。
鼓笛隊の賑やかな音が市場に響き渡る昼下がりがあったが、夜の帳が下りるにつれて、屋台の提灯が光だし、夜祭独特のどこか懐かしい雰囲気を醸し出す。
2人は祭りの喧騒の中、河川敷の花火打ち上げ場所からほど近い観覧スポットへと向かっていた。
人が溢れかえり、賑やかな話し声と期待の眼差しがそこにはあった。
きっと金魚掬いで、獲得したのだろう。鮮やかなオレンジ色の金魚を2匹ぶら下げて歩く子供と、その両親。くじ引きで獲得したおもちゃの拳銃を自慢気に見せ合いながら歩く子供達。全ての人々がこの日を待ちわびていたかのように思える。
観覧場所はもうすでに多くの人々がレジャーシートを広げて、その瞬間を待っていた。俺と彩花も空を見上げた。まだ空には星が輝いているだけだった。
「ねぇ、来年もまた来ようね。」
彩花が俺の腕にそっと触れ、顔を上げた。彼女の瞳は、未来への期待で満ちていた。その笑顔は、空に輝くどの星よりも輝いているように見えた。俺の胸には、甘く、切ないような感情が広がった。来年も、その先も、ずっと彼女と一緒に花火を見れる。当たり前のように、そう思っていた。
「ああ、もちろん。来年も、その先も。」
俺もそう答えた瞬間、まさにその瞬間だった。
なんの予兆もなく、夜空に轟音が響いた。
それは、これまで俺が聞いてきた、打ち上げの準備段階の音や、祭りの喧騒とは全く異なる、不意打ちのような、大地を揺るがすような一撃だった。最初の花火が、夜空の真ん中、まるで何もなかったかのように、いきなり、破裂するような音と共に爆ぜた。オレンジ、赤、青、緑と、次々と大輪の花が夜空に咲き乱れ、群衆からは割れんばかりの歓声が上がる。
人々の瞳に、瞬く光が揺らめく。
俺は、その壮大な光景を、やはりどこか冷静に眺めていた。この花火は、親父の工房の職人たちが、どれほどの時間を費やし、どれほどの火薬を詰めて作り上げたかを知っていたから。俺にとってそれは、技術と労働の結晶であり、他者の歓声は、ただの大きな音だった。
彩花は、何も言わず、ただ瞳を輝かせて花火を見ていた。暗闇の中で、花火の光に照らされる彼女はとても美しく、綺麗だった。
「ねぇ、もっと前で見ようよ!」
俺の腕を掴みながら彼女はそう言い、群衆の間を抜けながら前に進んでいった。いつの間にか手は離れ、彼女はもっともっと前へ進んでいった。辛うじて追いかけて行こうとするが、人々に阻まれてうまく前に出られない。そんな俺を見て、からかうように笑っているようにも見えた。
「───。!」
彼女がいきなりこちらを振り向いて何かを喋ったように見えた。花火への称賛と、轟音で何を言っているのかは分からなかったが、とても笑顔で何かを伝えようとしていた。
その時だった。
突如、空気を切り裂くような、異質な破裂音が響いた。それは、これまで俺が聞いてきた、夜空に咲く花火の音とは明らかに違っていた。通常の打ち上げ音よりはるかに低く、重苦しい、まるで地面が揺れるような衝撃。体に直接響くような嫌な振動が足元から伝わった。
歓声が、一瞬で悲鳴に変わる。
俺の目の前の、それまで煌めいていた夜空は、一瞬で黒い煙と、不吉なオレンジ色の閃光に染まった。その閃光は、俺の網膜に焼き付き、視界を焼き尽くすかのような強烈な熱を放った。火薬が焦げ付く、生々しい匂いが鼻腔を突き刺し、肺の奥まで侵食してくる。その煙の中から、何かが地面に叩きつけられるような、鈍い音がした。それは、ただの物体の落下音ではなかった。鈍く、重く、地面にめり込むような、そんな音だった。
「え……?」
俺は何が起きているのかがまるでわからなかった。ただ、何か普通ではないことが起きていることは瞬時に理解した。
戸惑う群衆の間を無理やり掻き分け、彩花の姿を見つけた。
彼女の顔色が、夜空の不吉な光を受けて青ざめていく。まるで、彼女の肌から血の気が引いていくのが見て取れるようだった。群衆はパニックに陥り、一斉に打ち上げ場所とは反対方向へと押し寄せ始めた。人間が持つ本能的な恐怖が、彼らを狂気に駆り立てる。まるで津波のように、人々が俺達を飲み込もうとする。背中から、無数の手が俺を押した。
俺は、咄嗟に彩花の手を強く握りしめた。彼女の指が、俺の掌の中で冷たく、しかし懸命に俺の指を探しているのがわかった。その手のひらの感触だけが、俺を現実に引き戻す唯一のものだった。しかし、混乱の中で、人波に押し流され、2人の手が、まるで糸が切れるように離れていくのを、俺はただ感じていた。
「彩花!」
俺の叫び声は、すでに悲鳴と怒号、そして瓦礫が崩れ落ちるような耳障りな音にまみれた喧騒の中に吸い込まれていった。喉が張り裂けそうだったが、声は音にならなかった。煙がさらに濃くなり、視界はほとんどゼロになった。
しかし、その黒煙のほんの隙間から、俺の目に映ったのは、人々に押し流されながら、一瞬だけ俺の方を振り返った彩花の、戸惑いと恐怖に満ちた瞳。そして、彼女が、その直後、黒煙の奥の、まだ燃え盛る残光の中に、吸い込まれるように消えていく姿だった。
俺の足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。脳は、目の前で起こっている現実を処理することを拒否しているかのようだった。
鼓動が、あの忌まわしい花火の爆発音と同じ速さで脈打つ。口の中には、火薬の焦げ付く匂いと、鉄の味がするような、生々しい血の味が混じり合う。それは、きっと俺自身のものだった。
それからはよく覚えていない。群衆が逃げ惑い、消防と警察のサイレンが聞こえた。
そして祭りの終わりを告げるように、すべての音が遠ざかり、静寂だけが残った。
君は、もういない。
俺の世界が終わったのと同じことだった。
読んでいただきありかとうございます。
花火大会の季節ですね〜。いい夏を!