1 花火大会
花火大会の前日、町はすでに祭りの熱気に包まれていた。
商店街には色とりどりの提灯が飾られ、祭り囃子の練習だろうか、遠くから太鼓や笛の音が響いてくる。
子どもたちは浴衣姿で走り回り、大人たちは浮足立った様子で、明日の祭りの話に花を咲かせている。
この町にとって、年に一度の花火大会である明日の祭りは、町民にとって最も待ち望まれた一大イベントであった。
北裕介、22歳。
俺も、そんな町の喧騒の中にいた。親父の北煙火店は、この時期になると朝から晩まで火薬の匂いが薄く漂い、作業上の奥からは常に何かを擦る音が聞こえてくる。そんな北煙火店の中で、花火玉を運んだり、打ち上げ筒の準備を手伝ったりと、なにかと俺も駆り出されていた。
「裕介、その玉は慎重に運べ。特に今年は新作が多いからな。」
親父、北源造の厳しくも優しい声が工房に響く。
親父は、代々続く花火師としての誇りを誰よりも強く持っていた。俺も幼い頃から花火作りの知識や技術に触れてきたが、どこか家業に対して冷めた、あるいは義務的な感情を抱いていた。親父のような絶対的な情熱は、俺には理解できなかった。花火は僕にとって特別なものではなく、当たり前の「家業」でしかなかった。
「分かってるよー。」
俺は素っ気なく答えて、重い花火玉を慎重に台車に乗せた。
その時、親父が手袋を外し、汗を拭う。彼の指先には、火薬の粉が微かに付着していた。親父は、俺の冷めた態度に気づいているのかいないのか、何も言わなかった。
その日の午後、町のスーパーへ買い出しに出かけると、商店街の一角に、今年の花火大会のポスターが大きく貼られていた。
色鮮やかな大輪の花が夜空に咲き乱れる絵は、見る人の心を浮き立たせる。多くの人が足を止め、そのポスターを見上げては、期待に胸を膨らませていた。
「ねぇ!ゆうくん!見てよ!」
柔らかい声が、俺の思考を遮った。
隣には、作田彩花が、涼やかな格好で立っていた。夏の陽に透けるような白い肌と、夕焼けを映したような瞳。彼女だけが、僕の日常に差し込む、非日常の光だった。
「この花火、すごく綺麗だね! ゆうくんのお父さんが作る花火、本当に世界一だよ」
彩花が目を輝かせ、純粋な憧れと喜びを見せた。その熱のこもった声に、俺は少し戸惑った。
彼女は花火大会のポスターを指差した。
「あんな風に、夜空に一瞬で輝くのって、なんだか素敵だよね。儚いのに、すごく力強くて……。ゆうくんは、毎日花火と一緒だから、そんなこと思わないのかな?」
彩花の問いに、俺は言葉に詰まった。
親父の背中を見て育った俺にとって、花火は「儚い美しさ」よりも、何トンもの火薬を扱う「危険な仕事」としての側面が常にあった。一歩間違えれば、それが何をもたらすかを知っていたから。
「まあ、そうだな……。綺麗だとは思うよ」
素っ気ない返事になってしまったが、彩花は気にせず、くるりと僕に背を向けた。彼女の右腕には青いブレスレットが揺れている。それは俺が誕生日に贈ったものだった。
彼女は、本当に花火が好きだった。その純粋な憧れが、当時の俺には少し眩しすぎた。
その夜、俺と彩花は祭りの準備で賑わう町を歩いた。屋台からは香ばしい匂いが漂い、子供たちの笑い声が響く。彩花は、金魚すくいの屋台で、はしゃぐ子供たちの方に目を向け、その瞳はまるで水槽の中で揺れる金魚の尾ひれのように、きらきらと輝いていた。
「お祭りは明日だろ〜って」
俺が冗談交じりに言った。彩花はクスッと笑い、こう続けた。
「ゆうくん、明日が待ち遠しいね。私、すごく楽しみ!」
その言葉に、俺の胸には漠然とした不安がよぎった。それは、花火大会の準備が佳境に入り、親父の顔に疲労の色が濃くなっていたせいだろうか。あるいは、ただの気のせいか。
「うん、そうだね」
俺は曖昧に答えた。
この願いが、もし、俺の中にあった漠然とした不安を打ち消してくれる「理由」になってくれたら――。
そう、強く願った。その姿は、誰にも心配をかけない、俺だけの静かな希望の光だった。だが、その光が、やがて来る闇を照らし出すことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。