英傑の言葉
「おめでとうございます」
ぶっきらぼうに言い放つ輪廻が投げ渡す手拭いを、傷だらけの灰呂は荒い息のまま受け取った。
あらゆる血管が浮き出て体の限界を感じさせる灰呂は、汗だくの笑顔で、
「某の勇姿、見ておったか輪廻!これが侍であり、『将軍』灰呂の、実力よ!!」
「えぇ分かりましたから。今は休んでください」
こんな時まで元気に振る舞う灰呂がなんだか哀れに思えて、輪廻は目を逸らした。それに対し紅葉は笑顔のまま灰呂の顔の汗を拭ってやって、労いの言葉をかけている。
それに嬉しそうにする灰呂は、ここで初めて安堵のため息を吐き出した。
「また『将軍』の座を守り抜きましたね」
「おうよ!水蓮。某はこの国で最も強い侍であると再び皆に知らしめてやったぞ!」
「えぇ、お疲れ様です。これからこのようになるよう、私は望んでいます」
「あぁ!そうであるな!……そうで、あればよいな」
輪廻はこの時だけ灰呂の顔を良く見つめてしまう。底なしの明るさと元気に塗れた灰呂であるが、時折暗い表情をバレないように忍ばせる。
それでも身近な人にならバレてしまうような分かりやすい落ち込みなので、隠している気ならそれは不発に終わっている。
「斬咲灰呂」
そんな輪廻の邪推を遮るように、騒がしい夜に突き抜けるような声が灰呂の名を呼んだ。この国の人間なら誰もが知っているその声の主は、担がれた輿の中から顔を見せずにそこにいた。
灰呂はすぐさま振り返り、地面に跪いて、
「はッ!帝殿!この斬咲灰呂、再び『将軍』の座を守り抜き申した!」
「良い。精進せよ。お主の脆弱な鉄の刃も、研ぎ続ければやがて鋼となる。磨きあげるのはお主の妻、斬咲紅葉」
次に発せられた名前は輪廻の敬愛する女性の名前。車椅子の上でできる限り頭を下げようとする紅葉に、帝は「良い」とその行為を止めて、
「赤子の息災に注視せよ。妾にそれ以上の敬意は不要である」
「ふふ、ありがとうございます、帝様」
微笑み混じりの感謝に、帝は何も返さなかった。紅葉を咎めるでもなく、無視するでもなく、姿が見えずとも分かるほど朗らかな雰囲気に包まれていた。
「して、そこの忍よ」
「……は、はい」
その言葉が自分を指していると分かるまで少し時間を要した。輪廻はすぐに跪き、顔を地面へ向けた。帝を見上げる資格などないと思いながら。
そんな輪廻に、帝は言葉をなげかける。
「妾はお主のような人間を知っている」
少しだけ悲壮感が混じる声の帝。その言葉の真意は、今はまだ分からない。
「努々忘れるな、その命は一つ。手放して良いのは、手放す他ないその時だけである」
「……承知しました」
「良い」
その会話を最後に帝を乗せた輿はその場を離れた。人混みの中を堂々と進む輿が見えなくなったあと、紅葉が手をパンと叩いて、
「それじゃ、帰って晩酌でもしよか?」
「おぉ!そうだな!早速行くか!」
「その前に灰呂様は水浴びをしてください」
人々が結果に喜び踊り、そしてそれに飽きて散り始めた頃、一行も祭りの締めくくりとして晩酌に思いを馳せながら、この場を去ったのだった。
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その男の執念と研究は、忍びですらおどろおどろしいと感じるほどである。
「右足の踏み込みが甘かった。それに加え、見るべきは刃ではなく手。それだけでなく、視線にまで気を配るべきだ。しかし右を見たからと言って右ではない。ならば次は───」
顎に手を添え、灰呂と同じように傷だらけの体のまま、男、波門彪我は灰呂の動きを完璧に思い出し、反省点を口から零している。
それを間近で眺める一人の家臣には、その姿はまるで恨めしい相手を呪い殺すかのように写った。
だがそれは慣れたこと。長い付き合いの中で、彪我がどんな男なのかはよく知っている。
ここに呼ばれた理由は、一人反省会の傍聴、ましてや相談のためじゃない。
「何の用だ」
「私の思考の邪魔をするとは。長い付き合いならわかるでしょう。話しかけるべき時というものが」
「すまないが分からん。そのようなことを考えたことがないのでな」
「えぇ、それでいい。あなた方忍があるべき姿は、私情なしの殺戮に徹した機械。あなた以上の忍を、私は見た事がない」
彪我が振り返る先、静謐な暗闇の中にひっそりと正座した黒装束の男。名前の無いそいつを、彪我はずっと『あなた』と呼んでいる。
「それで、あなたに課す任務ですが、主に二つあります」
彪我が持ち上げた二本の指に、忍の視線が向く。
「一つは、暗躍を続ける忍の長の実態を探ること。そろそろ敵は本気で動き始めるでしょう」
「承知。して、もう一つは?」
「えぇ、それは──」
彪我は忍の隣を指さした。それが意味するところが分からず、忍が指で示された隣へ視線を向けると──
「ッ!?」
忍はすぐさま飛びず去り、クナイと呼ばれる短い刃を構えた。
忍の真隣に、いつの間にか白髪の子供が佇んでいた。
気配など一切なく、まるでたった今そこに現れたかのような不可思議な子供の登場に目を剥く忍。
「はは、あなたですら追えませんか。ですが、もう見紛うことも、見失うこともないでしょう?」
「……当然だ」
「ならば、是非お願いしたい。──その子の『教育』。それが、あなたに課す二つ目の任務です」
「承知」
卑しく笑う彪我と跪く忍。それに挟まれた白髪の子供は脈打つ眼球の血流を煩わしく感じながら忍へ振り返り、
「よろしく頼むぜ、師匠」
子供とは思えぬ狂気的な笑顔でそう言った。
忍はこの瞬間感じ取る。この子供は普通の子供じゃない。
少なくとも、人を殺したことがある。
「心得た。して、其方の名は?」
「……白狼」
狂気に満ち溢れた二人は、師弟関係を結んだ。
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それから三ヶ月ほど経った。
時間とともに腹が膨れていく紅葉の腹の中では、灰呂の娘が生まれる準備を進めている。
両足のない紅葉はただでさえ不便な生活を強いられているというのに、妊婦となってからは更に生活が困難になるのではと内心不安であった。
だが、それは急であったと知る。
「紅葉様!無理せずに。私がお連れします。水蓮様!手をお貸しください!」
「承知しました。そこの使用人、念の為布を用意せよ。医者への通達を怠るな」
「紅葉ぃ!大丈夫だ!某がついているからな!」
「あんたらねぇ!うちはまだ子ぉ産まんよ!厠に行きたいだけやって!!」
過剰な程に紅葉を気にかけてくれる家族がいる。慕ってくれる家臣。真面目で柔軟に対応してくれる御家人。誰よりも愛してくれる夫。こんな幸せがあっていいのかと時折申し訳なるほど、紅葉は恵まれている。
膨らんだ腹をさすり、毎日赤ん坊に伝えていることがある。
「産まれてきたらきっと、楽しいことばっかりや。やから、早く元気に産まれてな?」
日々成長を誰よりも傍で感じられる紅葉。重たくなっていく子供が腹を蹴る度、幸せ度は増していく。
産まれるまでも、産まれてからも、幸せがずっと続く。この子も一緒に幸せになる。そのはずだ。
「楽しみやねぇ」
来るべきその日に備え、紅葉は過保護な三人に微笑みかけるのだった。
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幸せはずっと続く──そんな甘い世界でないことを、輪廻は知っている。
この屋敷で過ごすようになってから、紅葉が想像以上に狙われているということに気づいた。
くノ一であった輪廻がいた忍の組織が、ここ最近で何度も屋敷へ視察にしている。もちろん無断で。
それに気がついている輪廻は紅葉を守るように、忍なら必ず通るであろう通路を塞いだり、あえて狙いやすい箇所を罠にしたり、徹底的に忍の侵入を防いでいた。
紅葉の護衛に務める中で、当然の疑問が輪廻に湧く。
何故、紅葉は命を狙われているのか。
それは、とある英傑の言葉が関係しているらしい。
少しだけ昔話をしよう。
昔昔、およそ七百前。斬咲家が世界で有名な斬咲家となるきっかけとなる英傑が生まれた。
名前は斬咲赫羅。乱暴で荒っぽく、地獄の炎のように赫い髪の毛が特徴の少年だ。
魔王が世界の半分を飲み込んだ『終焉期』と呼ばれる時代に生まれた彼は、たった一人で魔王の城へ攻め込み、神にまで上り詰めたと言われる魔王、その全盛期に挑み、片腕を斬り飛ばした偉人である。
おかげでその百年後に生まれた『勇者』とその仲間たちによって魔王は封印され、『終焉期』は幕を閉じ、人の時代が始まったのだ。
神も恐れる魔王に深手を負わせ、四天王を二人も斬り殺した最強の英雄であり、侍である彼の名言とされる言葉が三つある。
まず一つ、『魔獣は食べるべきじゃねぇ』。これは常識としてほとんどの人は知っていることなので、意識して覚える程じゃない。
次に二つ、『魔王は光を求めていた』。これは学者の間でも意見が割れる言葉で、魔王は実は闇に支配されただけの人間だったのではという説と、『勇者』と魔王は惹き付けられる関係であり、『勇者』を光と揶揄しているのではという説がある。
ここまで二つの名言を述べたが、流れからこの二つが関係ないことはわかるだろう。注目すべきは三つ目。
『七百年も経てば、また俺と同じ侍が、同じ血を持って産まれてくらァ』
伝わっている文言をそのまま言うとこれである。
七百年後が赫羅の生きた時代から見ての話ならば、ちょうど今、十四代目が生まれそうな今がその時なのである。
信憑性は定かではないが、波門家はこの言葉を代々毛嫌いしており、『将軍』を狙う彼らは斬咲家が力をつけることを嫌う。
そのため、十四代目を孕んだ紅葉を狙った刺客が現れるわけだ。
「そんな言葉一つで、紅葉様の命を……」
輪廻は悔しげに下唇を噛んだ。命を奪うことへの躊躇の無さ。恐ろしく合理的に動いて倫理観を捨てた殺戮兵器。
それが忍であり、世間から見て異常とされることを平然とやる生き物なのである。
過去、灰呂に打ちのめされるまで輪廻もそうだった。
だから、頭ごなしに責めることのできない的の忍達が、不憫でならないのだ。こんなにも幸せな世界があることを、輪廻は教えてあげられないからだ。
だったら、せめて──、
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「来い。こっちだ」
闇夜に紛れた黒装束の男達が、瓦の上を無音で走り抜ける。鍛え上げられたしなやかな肉体を駆使し、彼ら忍は標的を狙う。
決して公的な存在でない彼ら、見つかれば当然捕まり、その罪で処刑される。
その危険を孕んで尚、命が潰える可能性があって尚、彼らは刃を首に宛てがう。それが正解だと教えられたから。
そんな彼ら、今宵、とある妊婦の首と腹を切り裂くために夜風となって走り抜けていた。
が、その前に障壁が現れる。
「ッ、止まれ」
先頭を走る忍がそう告げる。仲間十人の忍は足を止め、暗闇に佇む障壁を睨みつけた。
その雰囲気、気迫、佇まいから、敵は同じく忍であると分かる。しかし、不思議なのはその顔を全く隠していないことだった。
忍にとって、顔がバレることはおすすめできない。身分を明かすことは死を意味する忍にとって、禁忌とされるミスの一つだ。
それを堂々を成したまま瓦を歩く敵は、小さな短刀を二本握りしめ、忍び十一人と対峙する。
その恐ろしい殺意を剥き出しの、忍を否定するような忍は口を開く。
「貴様ら、死ぬ覚悟は出来たか」
それが、開戦の合図であった。