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銭湯探偵ののほほん事件簿

 私立探偵・船瀬晴人は悩んでいた。数年前に脱サラし、念願だった探偵事務所を開いたのは良いが、仕事は多忙で不倫調査ばかりだった。


 それに今回のターゲットである不倫女はなかなか狡猾で隙のない動きをとっていた。何度も探偵をかわしてきたベテラン不倫女のようで、なかなか尻尾が掴めない。


「困ったわ。この女SNSもやっとらんし、どうすっかねー」


 思わず事務所で愚痴をこぼす。その晴人の姿は、アラサー男ながら渋い哀愁がただよう。不倫の実情を山と見てきた晴人は、疲れていたのかもしれない。当然、結婚への期待も消え去り、婚活アプリも削除してから数年たっていた。


「ふうん。だったら、この女が住む街の銭湯に行ったらいいんじゃないですか?」


 事務所で一緒に働く助手の湯島衣子が言った。衣子も晴人と同年代。元々はクライアントだったが、離婚成立後、仕事がない、困ったと泣きついてきたのでパートとして雇っていた。現実を見せつけられてお疲れモードも晴人だったが、人情にあつい所があった。


「銭湯?」

「銭湯です! あれだけ濃厚接触している場です。不倫女の噂ぐらいあるんじゃないですか?」

「濃厚接触とかいやらしい感じの言い方やめてくれね?」


 そうは言っても他に方法もない。気晴らしも含めて銭湯に行くことにした。女の住む街は、レトロな雰囲気の商店街。当然のように銭湯もあった。


 外観は宮作りの古めかしい銭湯。いや、レトロと言っていい。中は綺麗だし、外国人も多いのか英語の風呂の入り方の看板もある。


 番台もあり、七十過ぎぐらいのお婆ちゃんが座っていた。料金は五百円もしない。初めて銭湯に行くが、これはお得なのか?


 番台の側にある休憩室では、湯上がりの客が旨そうにビールやアイスを食べていた。今日は仕事を忘れてチルしたくなってきた。


 男湯へ行き、脱衣所へ。ロッカーもレトロだ。デジタルじゃない体重計も初めてみた。一応コンビニでタオルやシャンプーも買ってやってきたが、それも借りられるらしい。


 まあ、男湯。おじさんや大学生ぐらいの若者の裸なんて見ても嬉しくはないが、浴場は広く、開放的だ。天井も高い。窓から夕焼けも見える。


 とりあえず身体を洗おう。バケツもレトロなやつ。ケロリンと書いてあるバケツだったが、鮮やかな黄色で意外と頑丈だった。昭和レトロ風なバケツだ。


 タイルを基調とした浴室だが、明るくて清潔感もある。身体を洗っているだけで開放的な気分だ。


 そして浴槽へ。今日は薬草湯なのか、湯の色は茶色だったが、ヘルシーな良い香り。実際、湯に入ると肌が生き返る感覚がする。ツルツルになりそう。頭はツルツルになったら困るが。隣で抜けた顔をしているおじさんを見ながら思う。


 浴槽から見えるタイル画も、どこかの湖と花畑。目にも楽しい。てっきり富士山のペンキ画でもあると思ったが、こんな洋風の景色も、これはこれでアリ。


 何より温かい湯に包まれ、足を伸ばしているだけで、仕事中のストレスや苦しみが蒸発していきそうだ。


 気づくと、晴人は仕事を忘れて、極上の湯に目を細めていた。


「あんさん、ここ初めてかい? 見ない顔だ」

「ええ。こんなに銭湯が良いとは思いませんでした……」


 隣にいるおじさんとの会話も、特別に思うぐらいだった。日常の悪いものは全て洗い流されていく感覚がする。完全に仕事の事は忘れていた。本来だったらここで不倫女の情報収集をする予定だったが、もう、どうでも良くなっていた。


 もっともおじさん達は浴槽に浸かりながら、近所の噂話に花を咲かせていたが……。裸のせいか、ここは何の壁もない。ソーシャルディスタンスもない。あるのはふんわりとした湯気だけ。おかげで人との距離も近いが、まあ、いいか。晴人はすっかり極上の湯にハマってしまっていた。


 湯上がりも休憩室でビールやアイスを食べたが、これも最高……。ふにゃけた指でグラスやアイスに木のスプーンを持つのだけでも楽しい。


 この銭湯ではクラフトビールや手作りのアイスを販売していた。正直味はどちらも普通だったが、湯上がりに食べるそれは、どうしてこんなに美味しいのだろう………。


 休憩室にいる晴人の顔はすっかりふにゃけ、間抜けなものになっていたが、ここにいる皆は同じような顔。不思議な一体感もあり、この空間にいるだけでも楽しい。のほほんとする。


 こうして銭湯の魅力にハマった晴人は毎日のように通い、番台のお婆ちゃんや常連のおじさん達と仲良くなり、不倫女の情報収集も成功した。


 この商店街の路地裏で部屋を借り、逢瀬を繰り返している所の証拠写真も撮れたが、不思議と何も嬉しくはない。


 そんな事よりも一刻早く銭湯に行きたい!


 仕事を終えたら、また銭湯に直行し、極上の湯に浸かっていた。


「ふぅー。楽しすぎる」


 湯上がりは手作りのアイス最中とコーヒー牛乳だ。


「うまい! バニラアイスってこんなに甘くて美味しかったか?」


 舌の上も極上だ。


 晴人の表情はすっかりバカになっていたが、探偵にはこんな時間も必要なのかもしれない。


 この後も銭湯に入り浸り、ご近所の小さな謎を解決し「銭湯探偵」と呼ばれるとは、晴人はまだ知らなかった。

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