ラジオーー人声が恋しくて
俺は時々一人で登山する。
とはいえ、それほどたいした山に登る訳ではない。そもそも日頃の不摂生がたたり、年相応――今年33になる――の体力さえあるかどうか疑わしく、仮に登りたいと想っても、厳しいだろうが。
一応、何かあったときのためにスマホも持って来てはいるが、遭難するような山は選ばない。ただ、そんな山に俺はあえて夜泊する。それは、一人きりになり、物思いにふけりたいがためだ。だから、スマホの方も電源は切る。通知や連絡が来れば興ざめだからだし、また、例え緊急の連絡があったとして――職場の方からであれ家族の方からであれ――夜、下山を試みるなら、却って危険である。
とはいえ、一晩中、自らの物思いに浸り続けるというのも、なかなか難しい。そもそも物思いとは、ふとした時にそうするのであり、これから物思いに耽ろうなんて構えてするものではない。
そんな時は、まさにラジオが友になる。少し高地におるというのもあるのだろう。普段入らぬラジオが入る。いろいろチューニングを変えて、聞いたことのないご当地番組を聴くというのは楽しい。このためだけに、隣県、更にはもう一つ先の県にまでわざわざ赴いたりする。
午前3時までは、どこも同じ番組――東京の番組――をやっていることが多いが、そのあとの、いわゆる丑三つ時を少し過ぎた時間帯では、各ラジオ局が独自の番組をやっていたりして、とんでもなく面白いという訳ではないが、やはり目新しさに加え何らかの面白みというのはあるのである。
ただ時刻も時刻なれば、うつらうつらすることも珍しくない。
その時もまた急に寒気を感じたのだが。
ただ半ばはまどろみながらも、聞こえて来るものを確かめ得心する。
どうも夏の夜ということで、ラジオで怪談をしているらしい。その内容はまったく憶えていないが、おそらく怖い夢でも見たのだろう。
それを聞き続けようとするが、眠気は強く――何せ普段は間違いなく寝ている時間である――眠りに落ちかけた。
そこで一層寒気が増した。
アレっと想う。
良くも悪くもまったく憶えていないのだ。夢のせいでないのは明らかだ。
明け方近くゆえ、気温が下がったのか。
夏のこの時期である。凍え死ぬということはありえないのだが、それでも雨具も兼ねて持って来ておった外衣を着ようかとは想う。夏風邪のなかなか治らぬやっかいさは知っておるし、それ以上にコロナのせいで、下手に熱も出せぬしセキもできぬ。
重たい意識と体を無理矢理起こし、外衣を入れておるリュックを探すために目を開けた。
「ひっ」
想わず声をあげてしまった。
何かあらぬものが見えた気がしたのである。少し離れたところに置いた携帯ラジオの上に、何かが覆いかぶさっておる気がしたのだ。
そんなはずはなく、もう一度目を開けて、それが錯覚に過ぎないことを確認すれば良いだけなのだが、実は己は恐がりだったりする。
それもあって、ランタンは点けっぱなしにしておった。お化けや幽霊の類いがおるなどとは、断じて想っておらぬが、それと見間違うだけでも嫌なのだ。
そこで俺は迷う。
朝まで待つかと。何も確認しなければいけない理由がある訳ではない。幽霊であったとして――そんなものがいるはずはないのだが――仮にそうだとして、あやつらが出るのは、夜のみのはず。100パーセントそうだとは言い切れぬとしても、朝にはおらなくなっておる可能性が高い。なら待つべきだ。そう結論づけた。
眠られれば良いのだが、先ほどから動悸が速まっており、とても眠れそうにない。
我慢だ。ここは我慢。己にそう言い聞かせるも、ただ、何としたことか、更に寒気が増した。体が震えて来るほどである。
何が起きているのか?
どういうことだ?
といって目をつぶっておっては分からぬ。
俺は仕方なく薄目を開けることにする。はっきり見る気はなかった。再び見えたとして、それが何だというのだ。
とにかく俺の願いは一歩下がっておったと言って良い。そうさっき見えたものと同じものが見えれば良いと。つまり、状況は変わっておらぬと確認できれば、それで良いと。
先ほど見えたのは幽霊の如くがラジオに覆いかぶさっておる様。ならば、ラジオ好きか怪談好きなのだろう。生前の執着ゆえか? ならば、望みのものはそこにあるのだ。あえて、こちらに注意を向けることはあるまい。
いずれにしろ、夏の朝は早い。そろそろ白み始めてもおかしくないくらいだ。
「オヒっ」
俺は再び強く目をつぶる。同時にすさまじき怖気が来る。ただ体の寒さのせいではない。目に入ったもののせいであった。
幸いなことは、はっきりと見えなかったこと。いや、見ようとしなかったことと言った方が良いか。そもそも、何が幸いか、最早、明らかでないほどに、混乱しておる気がするが。
吐き気さえ、もよおしてきた。
何だ。アレ。
想い出すな。想い出すな。そう心中で念じつつ、急ぎ先ほど見えた――いや、見えた気がしたようなものを打ち消す。
しかし何だ。アレ?
それでも俺の心はそれに引っ張られざるを得ないようであった。
生白きものが眼前に見えた気がした。
しかも人の顔の如くが。
そんなはずはない。
ない。
ない。
絶対にない。
ふと危うく意識が飛びそうになる。
右頬に何かが触れたのだった。
俺は立ち上がろうとするが、どうにも足腰に力が入らぬ。腰が抜けたか? ならば、手で振り払おうとするも、それさえできぬ。どう力を込めても、ピクリとも動かぬ。
俺は下半身に濡れたものを感じる。どうにも漏らしてしまったらしい。
そうして唇に何かが触れ、想わず目を開けてしまう。ほとんど骨と化した顔が、土をところどころにこびりつかせて、そこにあった。わずかに残る黒い髪は長く、恐らく女なのだろう。
己に当たった唇――というより、かつて唇であったものであり、今は歯茎のない乱ぐい歯が見えておった――を開いたり、閉じたりする。ただ、そこから声が聞こえて来ることはなかった。
やはり、ほとんど骨だけになった右手の人差し指でラジオをさし、それから、俺の喉に軽く触れた。左手は俺の右頬に添えたままであり、俺の体は動かないままであった。そして、そのシャレコウベを少し傾けた。肉がないから、分かるはずないのに、笑っていると思えた。
「それでは最後に地元に伝わる怪談話を。A山にまつわるものです。ラジオネーム闇夜のカラスさんが投稿してくれました。
『高くない山ですが、しばしば遭難者が出ます。それは女の幽霊が出て、連れて行くから。彼女は遭難者であり、さびしくなって仲間を求めているのです。だから、夜、キャンプが楽しいからといって、遅くまで話し込んでは、いけません。ラジオの聞きながらというのも、良くないです。何せ、人の話し声が恋しくて仕方がないのです。そして、最後に甘き口づけを交わし、うっとりした男を連れて行ってしまいます』
なるほど、ホラーに少し色っぽい話を加えましたね。でも、最後に甘い口付け。それをもらえるなら、連れて行かれてもいいかも。なんて私なら、思ってしまいます。きっと幽霊だから、寒々しい美貌の持ち主じゃないかしら? どう? 皆さん、暑い夜に、少しは肌寒さを感じてくれたかな? また、1年後にお会いしましょう。それまで、どうか、お元気でねー」
誰も聞いておらぬのを知らぬ気に、白み始めた朝にふさわしいさわやかな曲を、ラジオは奏で出した。