門出の朝日
空が白み始めた、王都フロト。その外壁の上で、ワタシはじっとその街並みを見下ろしていた。
「......ここともお別れね」
眼下に見えるのは、グラム王国首都の街並み。中央に王城を持ち、幾つもの邸宅が構えられ、大通りに多くの商店が並び、平民の家が無数に建ち並ぶ。この時間帯でも多くの人が忙しなく動き、すでに活気だっている。......まあ、貴族街が騒がしいのは、ワタシのせいだけど。
そこは、わたしが十年以上住んでいた都市。そして、今まで一度も見る事が無かった景色。
自分の暮らした都市が、こんなに広く、こんなに多くの人々が生活を営んでいるなんて知らなかった。いや、知識としては知っていても、見ると聞くとでは大違いとはよく言ったもの。
その景色をしばらく見続けてから、ワタシはそれに背を向ける。
——別に、ワタシは彼らを害するつもりは無い。彼らを殺したり呪ったりしたのは、あくまで復讐のため。王都に必要以上に混乱を齎すつもりは無いから。とはいえ、今日のワタシの行動で、十分大混乱しているだろうけど。
この先の事を考えたら、本当なら何か対応を取っておくべきかもしれない。けれど、これ以上何かしたら、宰相閣下に更に負担を強いることとなってしまう。ただでさえ今回の一件で迷惑をかけてしまっているし、これ以上は止めておくことにしよう。
——ただし、イヴを殺せるときが来たら、ワタシは手段を選びはしない。たとえ、それが多くの人々を殺すことになろうとも、——そして実の父を敵に回すとしても。
......けど、それは大分先の話。今は力をつけるのが最優先。——それに、大事な用も出来たことだし。
改めて、王都の外に視線を向ける。そこに広がるのは草原。更に向こうには森や山々が見える。見える自然は見たことが無いもので、日本とはまるで違うのだと実感する。
この先に広がるのは、わたしも、そして私も見たことのない景色。自然と魔境が広がり、魔物が跋扈する、未知の世界。心に宿るのは、見たことの無い世界への興味と好奇心。......そして、奴らへの殺意と憎悪。
「——さあ、いこうか」
そう口にし、一歩踏み出す。外壁上に半球型に展開された結界に干渉し、その外に出る。そこから際に足を掛け、飛び降りようと力を込めた時だった。
『———キュッ?』
そんな鳴き声が耳に入る。まさか結界のすぐ外に何かがいるとは思っていなかったので、警戒しながらそちらに視線を向け。
「......え?」
——ワタシは、言葉を失った。
そこにいたのは体長10cm程の小さな白い蛇。体をくねらせながら、こちらへと近づいてくる。その翡翠の瞳には恐怖は無く、興味深そうにこちらを見つめている。
——その姿を一目見て、分かってしまった。鑑定したわけじゃない、根拠がある訳でもない。でも、本能がそうだと、告げていた。
——この蛇が、一体誰なのかを。
「あ、ああ、ああぁ......」
予想外の出来事に、呆然としながらその場に崩れ落ちる。蛇は急に座り込んだワタシを見て、心配そうに近寄り、投げ出された手に巻き付く。
「キュッ、キュウ?キュ?」
「どう、して......」
彼女はワタシとは違う。この子にはきっと、かつての記憶はないだろう。ただ、その魂に残った微かな残滓が、ワタシに親近感を覚える原因なだけで、何かを覚えているわけではない。
それでも、思わずにはいられなかった。
——何故、恨んでくれない?
彼女は、そんな事をする人では無いと知っている。でも恨んでほしかった。憎んでほしかった。それくらいでしか、ワタシが彼女に出来る償いは無いから。もし、彼女の霊に会う事があったなら、復讐を捨てて殺されようと、そう思っていたのだから。
——何故、そんなに優しくする?
ワタシに優しくしないで。ワタシにそんな資格はない。彼女の手を振り払い、殺される原因を作ったのは、他でもないワタシ自身なのだから。
——ワタシから、離れて。
彼女にワタシが触れていいはずがない。そんなことは、決して許されないのだから。
でも、蛇はワタシから離れない。手から体を登り、首から顔に移り、目元をペロペロ舐め始めた。
この躰は、人形。涙が流れることはない。なのに、舐めるのを止めることはない。
——まるで、ワタシが泣き続けていると、そう言わんばかりに。
「ああ、ごめん、な......さい......」
それは、どうしようもなく記憶を思い起こし、重なっていく。言葉は無くとも、その行動の一つ一つに優しさがあった彼女の姿を。
「ああ、なんで、どうして、ワタシが、貴方が......」
謝罪が零れる。弱音が溢れる。生前の恐怖が、悔しさが、心の中に溜まった感情が、少しずつ吐き出される。そんなワタシの横で、彼女は何も言わずに寄り添い続けていてくれた。
「ふぅ......」
しばらくして、ようやく落ち着くことが出来た。むしろ、内に抱えていたものを吐き出すことが出来ただけ、良かったのだろう。
首元にいる蛇を手に乗せ、正面に持ってくる。蛇は掌の上で、静かにこちらを見つめている。
「......ありがとう。ワタシの弱音を聞いてくれて」
礼を告げ、その手を地面につける。
「さあ、行きなさい。......気を付けてね」
そう、ここでお別れ。この子を、復讐の旅に付き合わせる気はない。これは、ワタシの我儘なのだから。
「......キュッ!」
なのに、蛇はワタシの手から降りず、むしろ手首に尾を巻きつけながら、鋭く鳴く。まるで、ワタシと一緒に行く、というかのように。
「......あのね、ワタシの旅は、とても危険なの。いつ死ぬかも分からないし、目的は復讐。そんな旅路に、ワタシは貴方を連れて行く気は......」
「キュッ、キュウ、キュー!!」
ワタシの声を、抗議するかのような鳴き声が阻む。手に乗り、じっとこちらを見つめる蛇。その目を見て、思い起こされるのは、召喚された国の、あの城の牢屋での出来事。
私に、一緒に逃げようと提案した、彼女の覚語を宿した目を、どこまでも思い起こさせた。
「......はぁ、仕方ないわね。一緒に行きましょうか」
「キュウッ!」
結局、根負けしたのはワタシだった。嬉しそうに鳴く白蛇を見て、思わず苦笑いが零れる。最初から、ワタシに勝ち目など無かった。......だって。
——あの目を二度も裏切ることなんて、ワタシには出来ないのだから。
「——だけど」
顔を引き締め、蛇に向き直る。これだけは言っておかないと。
「この旅路は危険なものになるわ。だから、貴方にも自分自身を護れるくらいには強くなってもらう。決して楽しいだけの道のりじゃないし、むしろ困難が多くあるでしょう。......覚悟は良いわね?」
「キュッ、キュウッ!」
蛇は当然と言わんばかりに声を上げる。うん、覚悟はしっかり決まってるみたい。
「ならいいわ。じゃ、行きましょうか」
そう言いながら立ち上がり、外を向く。蛇が落ちないように胸元に入れながら、最後にもう一度だけ王都に目線を向ける。
王都を挟んだ更に向こう、東の空がひと際明るくなり、太陽が上がる。その光が街並みを照らし、朝を告げる。そして、ワタシには旅立ちを祝う光にも見えた。
「......いってきます。お父様、お母様」
最後にそう告げ、今度こそ王都に背を向ける。
「さて、行くわよ!しっかり掴まってなさい!」
「キュー!」
——そうしてワタシは外壁の上から、外の世界へと飛び出した。
——さあ、ここから始めよう。
——ワタシの復讐の旅を、そしてその先で幸せを掴む物語を。
——ガンダルヴ公爵家の惨劇。グラム王国の中でも最高位の一族に襲い掛かった悲劇は、とある魔物の誕生を明らかにした。元公爵家令嬢、アリスが変貌した、人形に宿る霊体系魔物。
起こした事から推察される、その魔物の知識の深さと狡猾さ。ゆえに、聖典教会は生まれて僅か三カ月のこの魔物に対し、特殊個体として手配書を出す。
それに付けられた名は『悪夢のアリス』。後世に於いて彼女の代名詞ともなる号は、こうして名付けられることとなった。
そして人々は未だ知らない。『悪夢』がこの先、一体何を成すのかを。
——今はまだ、誰も。
これで一章、「夜会は怨嗟と血に塗れる」は完結となります。
次回投稿は7月20となります。