宴は終われども——祈り――
——それは、決していい出会いとは言えなかった。
トヴァル・クラウ・ガンダルヴが彼女と知り合ったのは、彼が二十歳になった頃。屋敷の離れに向かう途中で、偶然通りかかった少女——当時十代前半だったアリアと出会った。
後から聞いた話だが、その日はいずれ勤めることとなる屋敷の案内と仕事の説明を、当時侍女として働いていた彼女の母から受けていたらしい。
トヴァルと会った時はちょうどその侍女が離れていて、その場にはアリア一人しかいなかった。彼が普段見かけない彼女に声を掛けると、始めは普通に受け答えしてくれたが、彼の名前を聞いた途端、アリアは鋭い視線を向けてきた。それが気になったトヴァルは彼女へと問いかけた。何か言いたいことがあるのか、と。
「言いたいこと?あるに決まっているでしょっ!?」
その言葉を皮切りに、彼女は堰が切れたように話し始めた。話し方は乱暴で、支離滅裂な部分も多く、普通ならとても聞き取れるようなものでは無かったが、当時から優秀だったトヴァルには造作もないことだった。
彼女の主張は、従者間での理不尽な格差やそれに起因するトラブルについて対応しない公爵家への不満と、それへの改善要求だった。それの被害をアリアの母が受けていたようで、色々と彼女に話していたらしい。
二十分程経った頃、ようやく言いたいことを言い尽くしたのか彼女の口が止まった。それでも、こちらを睨み付けたままではあったが。それを聞き終えて、トヴァルが初めにしたことは、彼女への謝罪と、それを伝えてくれたことへの感謝だった。
そんな態度を示したトヴァルに対し、アリアは戸惑っていたのだろう。
「......変な人」
ボソッと、そう返すのみだった。
——これが、トヴァルとアリアの出会いだった。
トヴァルはすぐにアリアから聞いた話の調査に入り、動き始めた。そして問題行動のある使用人を止めさせ、数日のうちにその問題を解消させた。
いささか強引ではあったが、使用人の娘にあんなことを言わせてしまったという負い目もあり、全力を尽くした結果、早期解決に至ることとなったのだ。
......その後、全ての事情を知ったアリアの母が、彼女の首根っこをつかんでトヴァルの元に謝罪に来た。あれだけの啖呵を切ったアリアが抑え込まれて何も出来ない姿には、彼も思わず笑ってしまったのだった。
......二人がその後に彼の前で始めた喧嘩には、勘弁してくれと思ったものだが。若様に何て口を効くんだい、知った事か、旦那様に知られたら何を言われるか、私がそう呼ぶのは生涯の伴侶だけだ、そんなあんたのこだわりなんて知るかこの小娘、何だとこの年増、そんな口論が目の前で繰り広げられるのに、頭が痛くなったものだ。
なんだかんだあって、それからアリアとの付き合いが始まった。とはいえ、最初はぎこちなかった。あの後も彼女の母親に散々怒られたらしく敬語を使っており、初めて会った頃の性格は鳴りを潜めていた。だがトヴァルもあまりの違いに戸惑ったため、二人の時は気にしなくていいことにした。そう伝えた時の彼女の嬉しそうな顔が、彼には妙に印象的だった。
たまに屋敷に訪れるアリアと話をする、それだけの関係。なのに、その時間はトヴァルにとってとても心地いいもので、いつしかそれは何よりも大事な時間となっていった。
数年後、アリアは屋敷に勤めはじめ、トヴァルと彼女が会う時間は以前よりも多くなった。——そして、何時しか二人は恋人となっていた。
ただし、それは平民と大貴族の、誰にも言えない秘密の関係。その頃のトヴァルにはまだ周囲を黙らせるだけの力が無かったし、アリアもまた昔と違いそのあたりの事情を理解していた。ゆえに必要以上に警戒し、誰にも悟らせなかった。
——今にして思えば、ここで数人だけでも誰かにこの事実を伝えていれば、何かが変わったかもしれないと、トヴァルは今でも後悔している。
数年後、兄が正式に家督を継いだ、すでに息子もいて、更に娘も生まれた。少なくとも、これで跡取りの心配をする必要は無くなった。そして、トヴァルも結婚を押し切るだけの力を手にした。
だから、彼はアリアに伝えた。——次の仕事が終わったら、結婚してほしいと。
その時の、アリアの表情を、彼は今でも覚えている。彼女が心から浮かべた、あの満面の笑みを。
「——いってらっしゃい、旦那様。帰りを、待ってるよ」
そう彼女に見送られて、彼は仕事の関係で半年間他国に赴いた。その間も、彼の心は踊っていた。この仕事が終われば、ようやくアリアと夫婦になれるのだと、その幸福を胸に抱えて。
——しかし半年後、トヴァルは思いもよらぬ絶望に襲われることとなる。
帰国した彼を待っていたのは、予想だにしていなかった事態だった。アリアが兄ハーヴェスの側室として迎えられ、しかも既に懐妊しているという、最悪の事態が。
初めにそれを聞いた時、彼はその事実が信じられなかった。何故そんなことになったのか、意味が分からなかったから。
それでも何とか取り乱すことなく、事情を調べさせた。兄がアリアに一目ぼれし、周囲の反対を押し切って強引に妻にしたこと。そしてすぐに手を出したのか早くに懐妊したことを。
トヴァルにとって不運だったのは、彼らの交際隠蔽があまりに完璧だったことで、誰も二人の関係を知らなかったことだろう。誰かがその関係を知っていれば、その結婚を止められていた可能性は十分にあったのだから。
だが誰もそれを知らなかった。ゆえに、彼が帰ってきた時には——全てが遅かった。
そして彼を何よりも絶望させたのは、——アリアの姿そのもの。かつての明るい姿はどこにも無く、静かに佇み、全てを諦めたようなその表情は、そして彼女が自身に向ける懺悔の念の籠った視線が、トヴァルを何よりも打ちのめした。
アリアを責めるつもりなど、彼には毛頭なかった。平民に公爵家当主の申し出を断ることなど出来る訳が無いのだから。彼女に、抗う選択肢など存在しなかった。
それにもしトヴァルとのことを伝えれば、虚偽をしたと判断されて殺されていたかもしれない。あるいは彼の汚点として扱われていたかもしれない。トヴァルがそれを告げるならともかく、本人がいない状況ではどうなるか分かったものでは無いのだから。
トヴァルは何よりも自身を憎んだ。不在だったばかりにこんな状況にしてしまった、更にはアリアに彼を庇わせてしまい、彼女を犠牲にしてしまった自分自身を。
そしてそれと同じくらいハーヴェスの事も憎んだ。事情を知らなかったとは言え、全てを奪っていった、アリアをあそこまで追い詰める原因となった兄を。
だが、すぐにそれどころでは無くなってしまった。——アリアが、正しくはその腹の胎児が、呪いを受けたと知って。
アリアを救う、その一念が彼を動かした。積み上げた人脈の全て使い、彼女を助けるために奔走した。それこそ、ハーヴェスとは比べることが出来ないくらいに、彼は手を尽くした。
しかし、結局それを解くことは叶わず、——あの出産の日を迎えることとなる。
——あの部屋に入った時のことを、彼は生涯忘れないだろう。
部屋の中心で、息も絶え絶えになりながら、それでも赤ん坊を腕に抱くアリア。もう、意識も朦朧としていたでのあろう。周囲の状況も正しく理解できていないように見える彼女だったが、それでもトヴァルの事だけは分かったのか、彼に向かって笑いかけてきた。
——かつての、あの幸福な日々に浮かべていたのと、同じ笑顔を。
「旦那、様......。無事、生まれ、ましたよ......」
——そして、彼女がそう告げた時、トヴァルの頭は真っ白になった。
思い起こされるのは、いつか交わしていた、会話。アリアが彼女の母に言った、旦那様と呼ぶのは生涯の伴侶だけ、という言葉。彼女が、ハーヴェスと話すときの呼称。
そして、あの日彼女がトヴァルを送り出した時の、見送りの言葉。
——その時になってようやく、彼は全てを知った。彼女が抱えるこの父が、一体誰なのかを。
——ただし、それはあまりに遅かったが。
「アリス......。旦那様との、愛しき、やや子......。どうか、すこ、や、か......に......」
そう生まれた我が子——トヴァルとの子供にアリアは微笑みかけ、彼女はその生涯の幕を閉じた。
崩れ落ちる兄を横目に、彼は呆然とすることしか出来なかった。
恨まれているとばかり思っていた。たとえ非は無かろうと、トヴァルはアリアを助けることが出来なかった。もっと早くに結婚していれば彼女に辛い日々を送らせることも、呪われる事も無かった。だから、表には出さずとも憎まれているとばかり、そう彼は思っていた。
——だが、違った。アリアは、最後までトヴァルの事を想ってくれていた。
——その命を懸けて、トヴァルとの子を護り抜いた。
かつてない程後悔し、自身の愚かさを恨み、憎悪した。それでも、自身のすべきことだけは見えていた。
——アリスだけは、護らなくてはいけない。彼女が護った我が子を、今度は自分が護る番なのだと。
しかし、それも上手くは行かなかった。最大限に手は打ったものの、彼女の周囲はそれ以上の悪意に満ちていた。下手を打てば彼女の立場を悪化させてしまうかもしれない、そう考えて強力な一手を打てなかったことも大きかった。......裏にいた、自身の姪の存在に気が付ければ、また違ったのかもしれないが。
——そしてその十一年後、アリスは幼くしてその命を落とした。
再び、彼は守れなかったのだ。自身の愛する女性だけでなく、その人との愛し子さえ、彼は失ってしまったのだ。
——自身の、力不足ゆえに。
月明かりに照らされた、執務室でトヴァルは一人佇んでいた。
思い起こされるのは、先程までこの部屋にいた、もう一人の事。自身の娘でありながら、そうでない魔物の事を。
......元気そうだった。今まで見たこと無い程に自由で、それがとても嬉しそうだった。
——それが見れただけで、救われた気分だった。
トヴァルは他に誰もいない部屋で、一人手を合わせる。
彼は、自身を愛した女性を護れなかった夫失格者であり、子を護れなかった父親失格者でもあると、そう考えている。
——そして、これから行う事がこの国の宰相として、また貴族として、間違っていると理解しているとしても。
——それでも、トヴァルは祈らずにはいられなかった。
「......アリア、どうかあの子を、俺達の子を、見守ってやってくれ」
——たとえ今は魔物であろうとも、たった一人の娘の、行く末を。
次回投稿は7月17日となります。




