夜会は血と怨嗟に塗れる——終宴——
この世界の成り立ちについて、正しい伝承は残っていない。正確に言うには、ある時点より前の記録は、一切存在しない。
それは、その記録が失われてしまったから。
魔王——遥か太古に現れた、とある大厄災が、世界が変貌させたことによって。
その存在がどういう姿をしていたかなどの記録は残っていない。ただ、その力の一端は、現在においても猛威を振るっている。
——魔物。体内に魔石という物質を持つ、特異な生物。これらは全て、魔王を元祖とする存在だ。伝承によれば、魔王が世界の理を書き換えたことによって、魔物という存在が生まれるようになったのだという。それがどこまで正しいかは分からないけど、現在でも、魔物は人類を脅かす最大の脅威であることに違いは無い。
また、地形なども大きく変化したと言われている。特に魔王が拠点としたとされる北のムシュフェル大陸は、数千年たった今なお人類が生きることが不可能とされる魔境と化しているという。
これらを始めとし、世界そのものを大きく書き換えてしまうような存在であった魔王に対し、当時の人類は追い詰められながらも抵抗し続けた。魔術も、それらに対抗するためにこの時代に生み出された技術の一つだ。
——そんな時代に、それらは現れた。
強大な力を持った、十人の英雄。彼らは魔物達をその力を持って打倒し、人類を一つにまとめ上げ、魔王の侵攻を食い止めた。
そして遂には、その命を代償として魔王を討伐することに成功する。
その十人の英雄は、死後に『聖者』と呼ばれるようになる。そして彼ら聖者は、自らを力の結晶を昇華し、後世に残した。いずれその力と、彼らの意思を引き継ぐ者が現れると信じて。
——それが『聖痕』。強力な力を宿す、十の固有スキル。時を超えて受け継がれる、聖者の力そのもの。継承者には個々の紋章が現れ、大いなる力を手にする。
それを継いだ者は聖者の後継者、——『聖人』と呼ばれ、そのいずれもが英雄と呼ばれている存在にまで至っている。
——そして今、ワタシの目の前に、その聖痕を受け継いだ人物がいる。
イヴ・クラウ・ガンダルヴ。今代における、第二聖痕〈緑宝紋〉を継いだ、新たな聖人が。
「......これは、いくら何でも予想外すぎるでしょう。まさか、聖人に覚醒するなんて」
彼女が聖人だったなんて、想定外にも程がある。世界に十人しか存在しない、聖なる力を持った存在だと、一体誰が気付けるっていうんだ。
ああ、本当に腹立たしい。計画が滅茶苦茶だ。
——今のワタシに、彼女は殺せない。
聖痕に関しては私だった頃に調べたことがあるから、ある程度は知っている。何故かというと、実はこの聖痕が勇者召喚に大きく関わっているから。
——この世界に置ける勇者召喚は、異世界にいる聖痕の継承者をこの世界に呼び出す術式だからだ。
そう、あの男も聖痕を受け継ぐ聖人。勇者とは『異世界人からきた聖人』の事を表す。他に召喚された人は、それに巻き込まれただけに過ぎない。何故巻き込まれた人まで強力な固有スキルに目覚めているのかまでは、理由は分かっていないらしいけど。
話を戻すと、聖痕について調べた結果、それぞれが持つ固有の能力とは別に、共通する能力も複数あるらしい。そのいずれもが強力な聖属性の力を宿しているのだとか。まあ、それを受けて一度死んでいる身としては、良く分かっていることなんだけど。
そしてその能力の一つに、自動防御機能というものがある。継承者の危機に応じて、その意思に関係なく力を発動するのだとか。聖痕の覚醒する理由はこれが多いらしい。
今、イヴに起きたのもその現象だろう。そして、その防御機能はまだ生きている。彼女の体から立ち上る金の燐光が、それを表している。故に今、ワタシは彼女に手出しできない。
そして最悪な事に、——さっきの光で結界が解除されてしまった。
壁や床に先程まであった黒い線が消えている。それは、結界が解除されたことの証左に他ならない。つまり結界の効果が消滅し、この異常事態に気付かれてしまった。すぐに騎士や兵士たちが駆けつけてくるのは目に見えている。
ついでに、結界が強制的に解除されたことによって、その反動がワタシにも来ている。特に呪詛属性は他と比べてその反動が大きいため、今のワタシは見た目以上にダメージを負っている。
そんな状況で、騎士や兵士が来る前にイヴを殺すことは不可能。
——つまり、復讐は完遂できない。
イヴもそれに気が付いたのだろう。口が微かに愉悦で歪んでいる。
「ふふふっ、どうやら私の命運も尽きてなかったみたいね。それで、どうするの?逃げなくていいの?」
「っ......。言ってくれるわね......」
彼女の挑発には乗りそうになるのを抑え込む。本当は、ここで殺しておきたい。今以上の好機は、きっとこれから先に訪れることは無いだろうから。
この先、聖人となったイヴを殺すことの難易度は相当跳ね上がることとなる。彼女が聖痕に覚醒した以上、いずれ英雄と呼ばれる領域に至るほどの力を身に着ける可能性は、十分ありえることだから。
また、聖人だと明らかになれば、彼女がいずれかの国家に保護されることは間違いない。それがガンダルヴ公爵家の所属するグラム王国なのか、聖典教会の総本山たるイザール聖教国なのか、それ以外なのか。どちらにしろ、下手すれば国家そのものを敵に回す羽目になりかねない。
そうなれば、彼女を殺すことは非常に厳しいことになる。だからたとえ無理をしてでも、それこそ自滅覚悟ででも、今殺しておくことが彼女を殺すための最良の選択といえる。
——そう考えながらも、それが無理であることを、ワタシは分かってしまっていた。
復讐相手が彼女だけならば、ワタシはそうしたかもしれない。だけど、ワタシにはあの勇者を始め、まだ殺さなくてはいけない相手が何人もいる。
それに、ワタシは生きなければならない。精一杯最後まで、此度の生を謳歌して、生き抜くことを、生まれ変わった時、皆に誓ったのだから。
——だからワタシは目の前の盾の残骸を消し、衣服を最低限直して引き上げる準備を整える。......悔しいけど、ここは撤退するしかない。
——今回は、ワタシの負けだ。
「......仕方ない。ここは引くことにするわ」
ワタシの敗北宣言に、イヴは苦しそうにしながらも満面の笑みを浮かべた。
「あら、そう?なら、とっとと惨めに逃げなさいな。それとも、今ここで私が介錯してあげましょうか?」
そう勝ち誇るイヴに対し、ワタシは呆れの視線を向ける。どうやら彼女は、現状を理解しきれていないらしい。
「無茶はしない方がいいんじゃない?......ワタシが殺す前に死なれても、つまらないし」
「?何を言って......、ぐぅっ!?ガァッ......」
ワタシの答えが理解できなかったのか首を傾げていたイヴだけど、その直後に胸を押さえて苦しみだした。
まあ、それも当然といえる。聖痕の自動防御機能だけど、発動には無論の事魔力を必要とする。今まで貴族として生きてきたイヴの魔力量はそこまで多くは無いから、先程の光だけでも相応の魔力を消費したことは間違いない。しかも結界の効果によって魔力の多くを事前に失っていたという状態で、だ。
ならどうやってあの力が発動したのか。それは、生命維持に必要な魔力をも使ったから。普通に魔術などを使う場合、魔力が少なくなればそれは出来なくなる。ただこの時に少なくなったのは『生命活動に重大な支障を来たさない範囲での』という前提が付く。要は体に無意識の内でのストッパーが掛かっている状態と言える。
聖痕はイヴを護る為に、その生命活動に必要な分さえ使ってあの光を放った。結果死にはしなかったものの、体への負担は相当の物になった筈。それこそ、命を削ったといってもおかしくない程に。
そんな状態で無理に動こうとすれば、その反動が体を襲うのは目に見えている。
しかも、先程の復讐も完全に失敗したわけではない。大半は聖光で吹き飛んでしまったものの、彼女にはすでに三人の魂の一部が混ざってしまっている。その影響は、決して小さいものではない。きっとこの先、彼女を苦しめ続けることになる。その成果だけでも、良しとしておこう。
頭を抱えて苦しんでいるイヴに向き直り、ありったけの殺意を込めて睨みつける。それに反応して顔を上げた彼女に対して、ワタシは告げる——宣戦布告を。
「——宣言するわ。イヴ・クラウ・ガンダルヴ」
声に込めるのは、ありったけの憎悪と呪詛。その濃密さに、今のイヴが冷汗を掻くほどのものを。
実際に何かしらの効果を込めたものではない。ただ、これはイヴの心の奥底に、少しでもいいから植え付けるための演出に過ぎない。
——ワタシの存在と、それに対する恐怖を。
「ワタシは決して諦めない。どれだけ時間が掛かろうと、どれだけ険しい道のりだろうと、ワタシはこの復讐を完遂する」
これは彼女への宣言であるのと同時に、ワタシ自身への誓いでもある。
「聖痕、聖人?そんなの、知ったことじゃないわ」
どうせ、勇者を殺すためには、もっと力がいる。ならばワタシのやることに変わりは一切ない。元々標的ではあったのだから、一人も二人も変わりはしない。
——強くなるしかない。聖人たる彼らを超え、蹂躙できるほどの圧倒的な力を身に着ける。
「ワタシは、必ず貴方の元に戻る。力をつけ、その聖痕ごと叩き潰して、絶望へと堕とす」
だから、待っていなさい。その時になったら、今度こそワタシは、イヴを殺すから。
「決して忘れては駄目よ?この先、ワタシがいつか殺しに来ることを覚悟しながら、ワタシの影に怯えて生きていきなさい」
——ああ、そうだ。必ず、絶対に。
『——次に会った時、その時こそ、ワタシは貴方を殺すわ』
それだけ告げて、ワタシは彼女に背を向ける。食堂の外が騒がしくなってきた。もう時間が無い。そろそろ行かなくては。
「それじゃ、さようなら、イヴ。お願いだから、ワタシが殺すまで死なないでね?」
「アリスゥゥゥゥ......」
後ろから憎しみの込められた声が届く。チラリと後ろを見れば、血塗れのイヴが無理やり立ち上がりながら、こちらを向いていた。フラフラで、今にも倒れそうなのに、その眼だけは憎悪で燃えている。
「私の方こそ、いつか必ず、貴方を殺すわぁっ!?絶対にねぇっ!?」
彼女でありながら、彼女の母のような雰囲気を宿しながら、イヴもワタシに宣言する。
——その怨嗟の声を背に受けながら、ワタシはその場から立ち去った。
......ああ、そうだ。最後にあそこに寄っていかないと。まだ、会わなければいけない人がいるし。