夜会は血と怨嗟に塗れる——従属者・中——
「さて、まずはそれを解くとしましょうか」
アリスの言葉と共に、執事に掛けられていた結界の効果が解け、自由に動けるようになる。急に体に掛かっていた不可視の重圧と倦怠感が消えたことにポカンとする執事だったが、状況を理解するとともに飛び起き、アリスから距離を取って警戒する。
「...一体どういうおつもりですか?結界の効果を解くなど、何の意味もないでしょうに」
執事はアリスから決して目を離さず、一切警戒を解かずに問いかける。その一方で打開策を検討するも、結界により外との繋がりは断たれており、兵士二人は未だ拘束されているため彼の役には立たない。それに仮に逃げようとしたところで、目の前のアリスが彼を逃がす筈が無い。
故に体に自由が戻ったところで執事にはどうしようもなく、彼に出来ることはアリスの次の行動を平静を装いながら待つだけだった。
「まあ慌てないの。すぐに分かるから」
アリスはといえば、クスクスを楽しそうに嗤いながら内心怯えている執事をじっと見つめる。——まるで、これから遊ぶ玩具を楽し気に観察するように。
「それじゃあ、今すぐ宝物庫から剣を一本取ってきなさい。ああ、取ったらすぐに戻ってくるように。余計なことはしないようにね」
「...は?」
アリスの唐突な言葉に、執事は思わず呆ける。忌み子に命令された事への苛立ちなどよりも以前に、突然何を言い出すのかと思った為に。
——だが、それに従わなかった代償を彼はすぐに味わう事となる。
「あ、ぎっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
前触れも無く執事の全身に激痛が走る。まるで体の内側から何かに喰われるような、傷口をえぐられ、かき回されるような異常な痛みに耐えきれず、彼はその場に崩れ落ちた。
「ぎっ、がぁっ、があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
あまりの激痛により指一本動かす事すら出来ず、執事はただ絶叫する事しか出来ない。痛みの元を探ろうにも彼自身は怪我一つ負っていない。無論彼自身も元凶がアリス以外にいない事は理解しているのだが、激痛の所為で満足に考える事すら出来なくなっていた。
「あらあら、随分と痛そうね。留まっているからそうなるのよ。とっとと取りに行けばいいのに」
だからだろうか、自身の絶叫が響く中聞こえてきたアリスの一言を、執事は疑いもせずに受け入れた。唯一示された指針に従うように何とか体を起こし、宝物庫内に向けて一歩踏み出す。
「...え?」
その瞬間、執事を襲っていた激痛が消えうせる。まるで初めから痛みなど無かったのように、霞の如く。代わりに彼の内から溢れだしたのは、異様な幸福感と快感。痛みの反動もあってか突如湧いてでたそれはあまりにも心地よく、彼はそれに身を任せるように足を動かし、宝物庫にある剣を適当に一本選んで元の場所に戻ってくる。...アリスの命令のままに。
「......はっ!?」
一連の行動の後、夢から醒めるように執事は正気に戻る。彼は手に握った剣を見下ろしながら、今自身に起きた出来事を理解できずに呆然とする。いや、彼自身の行動そのものは分かるものの、その過程で起きた不可解な現象は全く理解が及ばなかった。未知の現象に、彼は体の震えを抑えられなかった。
そして執事はその原因であるだろうアリスの方へと恐る恐る視線を向ける。当の本人はと言えばそんな彼の反応がおかしいのか、愉快な感情を隠すこともせず微笑んでいる。
「何を、したのですか?」
怯えながら問いかけてくる執事に、アリスはネタ晴らしを始める。彼女が彼に、どんな仕込みを施したのかを。
「別に大したことはしてないわよ。私の命令に強制的に従うようにしたわけでは無いし。——ただ体質を変えただけよ」
「体、し...つ?」
その言葉の意味が理解できず、執事はアリスの言葉をオウム返しする事しか出来ない。
「ええ、呪詛魔法でね。ワタシの命令に従う事に快感と幸福感を覚え、従わないと激痛が走る体質に、ね」
「...な、ぜ?」
アリスの答えは簡潔なものだったが、執事はその意図を理解しきれなかった。確かに先程まで彼自身に起きたことを説明するならその通りの答え。だが、彼にはそれを自身に施した理由が分からなかった。
そんな執事に対し、アリスは笑みを深めながらその仕掛けの本質を口にした。
「言ったでしょう、その忠誠心を試すって。これは一種のゲームよ。あなたが激痛に耐えて公爵家への忠義を貫き通すのか、それとも快楽に溺れて堕ちるのか。それを確かめましょう、ってこと」
「っな、ぁ......」
その答えに、今度こそ執事は言葉を失った。彼女の仕掛けに潜む悪意に、気付いてしまったために。
アリスの命令に逆らい続ければ、拷問のような激痛が彼を襲い続ける。命令に従えば代わりに快楽を得られるものの、それは公爵家を害する者に与することに——つまりは公爵家への叛心に他ならない。
しかもアリスの命令そのものに強制力はない。つまり、それを決めるのは執事自身。
——忠誠を選ぶのか、それとも快楽を選ぶのかを。
「それじゃ、続きと行きましょうか」
「っ!?お、お待ちく——」
その仕掛けの悪辣さに呆然としていた執事だったが、アリスの言葉により現実に引き戻される。そしてこれから始まるであろう地獄を想像してしまい、咄嗟に止めに入る。...だが、彼の言葉でそれが止まることは無い。
柔らかな、それでいて邪悪な微笑みを浮かべながら、アリスは命令を口にする。
「——そこの兵士二人をその剣で痛めつけなさい。決して殺さないようにね」
次の瞬間、執事の全身に再び激痛が走る。
「ぎぃ、ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?」
先程以上の激痛に、執事は再びその場に崩れ落ちた。否、痛みそのものは変わらないのだが、その前の快感を体が覚えているせいで、彼の感覚がより痛みを感じていた。
耐え難い痛みが体を蝕む。体をかき混ぜられ、皮膚や爪を剥がされ、骨を折られ、肉を抉られる、そんな幾つもの痛みを組み合わせたような激痛が彼を襲い続けていた。
あまりの痛みによって彼は気が狂いそうになる。...執事の矜持を捨て、先程の快楽へと逃れたいと考えてしまう。
そんな考えが頭をよぎり、執事は顔を兵士たちの方へと向ける。地に伏せる彼らの表情が彼の目に入る。目の前で苦しむ彼の姿に、次は自分達がこうなるかも知れないという恐怖と不安が彼らの顔にありありと浮かんでおり。
——そして、その感情に隠れて。自分たちが同じ目に今あっていない事への安堵と彼への憐みが、微かに読み取れてしまった。
そんな兵士達に対し、執事は怒りが湧き上がってくる。何故彼らに憐憫など抱かれねばならないのだと。公爵家の兵士ならば敵を倒しに立ち向かうべきなのに、そこで倒れている姿は一体なんなのだ、と。
——何故あいつらの為に彼自身がこんな痛みを受けなければならない、と。そう思ってしまった。
一度そう考えてしまえば、それを止めることは執事には出来なかった。ゆっくりと痛みを堪えながら立ち上がり、ふらふらと兵士達に近づいていく。それに対し、微かに浮かんでいた安堵の感情が消えていく二人。それを見ているだけで彼の溜飲が下がっていく。
「ま、待ってください!?まさか、執事さん、そんなことしないですよね!?」
「そ、そうですよ、アナタみたいな人が、そんなこと...」
「...うるさい」
兵士たちが何か喚いてるが、もはや彼には雑音にしか聞こえていなかった。その雑音に眉をしかめながら彼は剣を振り上げ、——片方の兵士の指を切り落とした。
「や、やめっ、ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
「お、おい!?執事さん待っぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
「ふ、ふふ、ふはははははははっ!!」
途端に体の奥底から湧き上がる、強烈な快感と充足感。快楽が執事の全身を駆け巡り、心と体を満たしていく。まるで全てを得たかのような万能感に突き動かされるように、もう一人の足を突き刺し、哄笑を上げる。兵士達は悲鳴を上げるが、それすらもはや彼の快楽を引き立てるためのスパイスでしかなかった。
——それから執事は快楽に突き動かされるままに、彼らを死なないように甚振り続けた。最初のような深い傷をつけてしまうとすぐに死んでしまうので、出来るだけ浅い傷に留めて、じっくりと時間を掛けた。皮膚を薄く削ぎ、爪を一本一本剥ぎ取り、ゆっくりとその眼球に指を掛けて抉り取り、手足の骨を丁寧に折っていく。
最後に執事の前に残ったのは、全身血だらけで、あらゆる部位を剥がされた、肉だるまとでも呼ぶべき醜い肉塊が二つ。それの完成度に思わず彼はため息を漏らす。
「いいわね、それじゃあ、それに止めを刺しなさい」
「御意」
下された主の命に従い、執事はそれらの喉へと剣を突き刺した。
「う...ぶぅ......」
「あ...ぐが......」
もはや意味の無い音しか上げないそれらの命の灯火が消えていくのを執事は満足げに見つめていた。後に残ったのは彼が散々に嬲り殺しにした兵士の...。
「......あ、ああ、あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
彼らを殺した瞬間に快楽が消え去り、執事の思考が明瞭になる。途端に蘇る、人を甚振り殺した感覚とむせ返るような死臭に耐えきれず、彼は胃の中身をその場でぶちまけた。
「げぼぉ、ごっほっ、う゛お゛えぇぇぇぇぇぇ......」
「あら、どうしたの?そこまで痛めつけたのは貴方なのに」
嗚咽を漏らす彼の背後から、愉悦を孕んだ声が聞こえてくる。振り返った先にいるのは、目の前の惨劇にも表情を一切変えず、愉し気に微笑んでいるアリス。その穏やかな笑みに底知れぬ狂気を感じながら、彼は感情のままに叫ぶ。
「...あなたが、命令したのでしょうっ!?彼らを傷つけて、殺せと言ったのあなたでっ!?」
「ええそうね。でも、そんな肉塊にしたのは貴方の判断でしょう?」
「っそれ、は...」
その言葉が、見えない刃となって執事に突き刺さる。
「誰もそこまでするようには命令してないのよ。貴方には痛みに耐えることも出来たし、そうじゃなくともほんの少し傷つけるだけでも良かったのよ。どれだけ痛めつけるかなんて決めて無かったし」
「やめ、もう止めて...」
止まらない言葉が、次々と襲い来る。彼の罪を思い知らせるかのように。
「それをあんなに痛めつけたのは、時間を掛けて甚振ったのは誰?あなたでしょ?」
「ちがっ、違...う......」
彼らをあんな目に遭わせたのは、執事自身なのだと。
「あんなに楽しそうに笑い声をあげて、愉快そうに剣を振るって...。そんなに面白かったのね、彼らをぐちゃぐちゃに変えることが」
「やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
彼女の声をそれ以上聞くことに耐えられず、執事は泣き叫びながらその場に蹲り、必死に耳を塞ぐ。この現実から逃げたくて、全てを忘れたくて。
——それでも、悪夢はまだ襲い来る。この程度では、終わらないと。
「——それじゃ、最後の命令よ」
耳を塞いだのに、叫び続けているのに、その声は執事の耳にはっきりと聞こえてきた。まるで、彼に逃げ場は無いと告げるように。
「そこの扉、もう開くようになっているのよ。屋敷内なら自由に動けるわ」
その言葉に、執事の思考が真っ白に染まる。
「そして、他の人は誰も動けない。移動できるのは貴方だけ」
ばっと頭を上げ、元凶へと視線を向ける。その口から紡がれる言葉に、彼は懇願するように首を振るが、それは止まることなく。
「だから、屋敷にいる人。公爵家の人間も、侍従達も、全員」
それでもそれを聞かないように、執事はその場を一目散に逃げだした。階段を駆け上がり、開いたという扉を目指して、ただひたすらに。彼に許された行動はそれしかなかったから。
——既に、手遅れだと知っていても。
「——殺してきなさい、自由に」
「...あ、あ、ああ、ああ、ああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
——アリスの命令と自らの絶望の叫びを聞きながら、執事は地獄に堕ちていった。