夜会は血と怨嗟に塗れる——帰還——
——時は執事が宝物庫に向かった時にまで遡る。食堂を出た執事は地下への階段を降り、そこにある大扉の前に辿り着く。扉の前には三カ月前と同じ兵士が二人、警護として立っていた。警備兵は現れた人影に警戒するが、それが執事だと分かるとほっと息と吐き笑顔を浮かべる。
「ああ、お疲れ様です。旦那様から話は聞いています。お嬢様への贈り物ですね?」
「そうだ。宝物庫の方に異常は?」
「ありませんって。いつも通り、何も起きない静かな場所ですから」
執事の問いに兵士が笑って返す。宝物庫の警護に就く兵士は、特に公爵家への忠義が厚い者から選ばれるので、心配はしていない。ただ、宝物庫に異常が起きることが無いために少々気が緩んでいると執事は感じた。
「...心配はしていないが、あまり気を緩めないようにな」
「分かっていますって」
苦笑いを浮かべる兵士を横目に、執事は宝物庫の鍵である赤い宝石を掲げる。それと共にゆっくりと扉が音を立てて開き始める。
それを見ながら、執事は今日持ち出す宝物の在り処を思い出す。確か少し奥まったところにあるので、少し時間が掛かるかもしれない。あまり待たせては申し訳ないし、兵士の一人に手伝って貰おうか、などと彼が考えていた時だった。
「——あら、ようやく開いたのね。待ちくたびれたわ」
——背筋が凍るような、邪気を孕んだ声。その声に執事はバッと扉に目を向けた。開き始めた扉の僅かな隙間。そこからほんの少し見える、銀の輝きを見た瞬間に、鍵を掲げて開閉を切り替える。すぐに再び閉まった大扉がしっかり閉まったのを確認してから、兵士達に目を向ける。二人の顔も青ざめていることから、あの声が幻聴では無いと確信した。
「...何ですか、今の声......」
「...女の、子?」
警護職だというのに予想外の事態に呆然としている兵士を見て、執事はつい怒鳴り声を上げる。
「呆けている場合か!?急いで旦那様に報告を!それから騎士を戦力としてこちらに寄越して貰え!」
「っ!?はっ、はい!」
「俺達が行くんですか!?執事さんが向かった方が!」
正気に戻って動き始める兵士達だが、どうやら混乱しているらしい。感の悪さに執事は思わず舌打ちを漏らす。
「もし扉が向こうから開けられるようなことがあったら、この鍵が無くては意味がない!それにお前達のほうが足は速いだろう!」
「っは、はいぃぃぃ!」
執事の怒声を受け、兵士の一人がようやく階段を駆け上がっていく。やはり最近の兵士は練度が足りていないと苛立つが、今はそれよりもあの声への対処を最優先すべきだと頭を切り替える。残った兵士は武器を構えてはいるものの、顔は真っ青にし全身を震わせている。
そんな兵士の姿を情けなく思いつつ、執事は状況を少しでも整理するために彼へと問いかける。
「宝物庫を最後に開けたのはいつだ?」
「え、えっと、それは......」
兵士は少し考え込み、答えを出す。
「...三か月前、あの人形を運び入れたのが最後かと。あれ以降に宝物庫を開けたという記録はありませんので」
それを聞いた執事が真っ先に思い浮かべたのはあの人形の持ち主。だがそれはあり得ないと彼は被りを振る。何故なら、あれはあの日に死んだのだから。
だがあの日、主から聞いた言葉が執事の頭からはどうしても離れなかった。
「あの、実は......」
その時、兵士がおそるおそるこちらに声を掛けてきた。思わず向けてしまった鋭い視線に兵士はたじろぐが、意を決したように話を続ける。
「...人形を運び入れた日に、一瞬聞いた気がするんです。女の子の微かな笑い声、...しかも今の声と同じようなものを」
「...なにぃ!?」
その今更過ぎる報告に、執事は思わず声を荒げる。兵士はその声に身を縮こまらせるが、今の彼にそれを気にする余裕は無い。
「何でそれを報告しない!?」
「そう言われましても聞こえたのはほんの一瞬で、今まで幻聴だと思ってたんですよ!?さっきあの声を聞くまで、完全に忘れていましたし!」
「っ!?くそっ......!」
兵士の言い訳に呆れながらも、執事は自分の馬鹿な考えが現実味を帯びてきたことに戦慄を覚える。考えたくもない嫌な想像が次々と脳裏に思い浮かんでいく。
もし、仮に万が一アレがあの時点で魔物と化していたなら。もし、人形に潜んで宝物庫に忍び込んでいたとするなら。
——肉体から解き放たれたアレは、この三カ月でどんな変貌を遂げたというのか。
その時、助けを呼びに行った兵士が戻ってきた。助けを呼びに行ったにしてはやけに早い帰還だと執事は首を傾げるが、帰ってきた兵士の様子がおかしい。その表情は先程までよりも恐怖に染まっており、まるで死人の様。その上、誰一人援軍を連れてきていない。
どういうことかと問い詰めようとした執事だったが、口を開く前に兵士が悲鳴ともとれる叫びを上げる。
「屋敷への、扉が開かない!ビクともしないんだ!?」
「「は......?」」
信じられない言葉に執事は残っていた兵士と二人、呆然としてしまう。確かにこの地下への階段の入り口には扉がされている。わざと音が立つように設計されていて、宝物庫に誰かが入ってくるのを兵士に知らせる一種の警戒装置となっているのだ。
ただし、その扉には鍵はついていない。——そのはず、なのに。
予想もしていない事態に執事が絶句する中、助けを呼びに行った兵士が縋るように彼を見つめてくる。
「執事さん、その鍵で何とか出来ないんですかっ!?」
その言葉にもう一人の兵士が期待を込めた視線を執事に向けるが、彼の表情は暗い。
「...無理だ。これはあくまで宝物庫の鍵、正確に言うなら宝物庫の入り口に掛けられた結界の一部に干渉するための魔術具。他に役立つもの...、で、は...?」
「...あ、の?どうしたんです?」
兵士の問いに答える執事だったが、その声が徐々に小さくなる。急に黙りこくった執事へと兵士が不安そうに声を掛けるが、彼はそれが聞こえていないのか言葉を返さない。
「...そうだ、何故、あの扉は開かない?」
執事の脳裏で様々な可能性が飛び交う。階段入り口の扉には先程言った通り鍵は無い。それにあの扉はこちらから見れば内開きのため、たとえ扉の外に物を置いたとしても扉の開閉には影響しない。何かで縛ったにしてもあの扉にはそもそも取っ手が無い。
そう考える中で思い起こされるのは、先程彼自身の言葉。そして今も手に持つ宝石——宝物庫の鍵。
「......まさか」
そうして思い至った結論に、先程までどうにか気丈に振る舞っていた執事の顔面が土気色に染まっていく。そのあまりの変貌ぶりに兵士達は驚愕する。だが執事はそれに気付いた様子すら無く、考えのままに口から言葉が紡がれていく。
「...この宝物庫の扉の結界は、この屋敷全体に掛けられた結界術式の一部でしかない。結界術式は屋敷全体に、そう、それはあの扉にだって同様。もし、それが原因で開かないとしたら...」
実は、この屋敷に掛けられている結界は宝物庫だけに作用するものでは無い。結界の範囲指定術式は宝物庫だけでなく、そこから屋敷全体にまで伸びている。普段は宝物庫のみ発動している結界だが、緊急時には屋敷そのものを護れるように機能させることが出来る特別性。大貴族であるガンダルヴ公爵家だからこそ実現できた仕掛けだろう。
故に、この屋敷にはその術式が刻まれている。そして、それには何故か閉じ切られた地下階段の扉も無論含まれる。
その事実を聞かされた二人の兵士が真っ先に思い浮かべたのはとある可能性。
「...まさか、結界に手を加えられたっていうんですか!?」
「そんなことはあり得ません!?あの扉に何かされていたとしたら、俺達が必ず気付きます!」
だがそれは兵士二人からしたら到底認められないこと。いくら兵としての質が下がっているように執事が感じていたとしても、彼らとて目の前で結界を弄られていれば気付かないわけが無いのだから。
「...違う、そうではない」
二人の大声で少しは正気に戻った執事だったが、四肢の震えは止まらず顔色も悪いまま。長年仕える中で彼は主より結界魔術についてある程度の知識を得ている。だからこそ、彼は思い至ってしまったのだ。
「外部に刻まれた結界の術式はあくまでそれの効果範囲を指定するための物でしかない。だから扉の術式を書き換えようとしたところでそもそも無意味。それに直接干渉するには、...核を弄るしかないようになっている」
執事の言葉を、兵士は無言で聞き続ける。聞きたくなくても聞くしかない、最悪の予想を。
「結界の核は、旦那様の話ぶりから予想するに宝物庫の中にある。それも当然、結界の要は結界内に置かないと意味がないのだ。そして誰にも弄れないように場所を秘匿され、堅固に守られたそれは容易に手出しできるものではない。だからこそ結界術式の堅牢さは保たれるのだ」
——だがしかし、それは術式核が護られていることが前提に成り立つ物。もし、核の守護が暴かれ、それを弄られてしまったのならば。
「そこの扉が開かない原因が、結界にあるとすれば。...信じたくは無いが、術式の要たる核を弄られたのが理由なら。ことは、この扉だけでは済まない」
執事は告げる。
「...書き換えられた結界術式は、私達を、屋敷にいる者全てを閉じ込める檻と化す。つまり、この屋敷はもう敵に堕ちたも同然なのだっ...!」
——考えうる限りの、最悪の状況を。
「「......」」
執事の言葉に兵士たちは何も返すことが出来なかった。信じられなかったから、ではない。彼らも気が付いてしまったのだ。結界を書き換えたであろう、敵。それが一体何者であるのかを。
——そんなことが出来る可能性があるのは、彼らが知る限り一人しかいない事を。
——そして同時に彼らは失念していた。それが事実ならば、厳重な宝物庫の扉とてもう意味を為していない事に。
「——あらお見事。流石は、長年あの人に使えてきた執事なだけあるわね」
——次の瞬間、視界が黒く染まった。いや、壁や天井、床に黒い線が走った。そして異変が彼らに襲い来る。突如として体に力が入らなくなり、魔力もどこからか吸われて消えていく。耐えかねた三人は思わずその場に膝を突いてしまう。
「ガッ!?」
「な、にっ!?」
「これっ、はっ!?闇、のっ!?しかも、結界っ!?」
兵士二人が状況を飲み込めない中、執事だけは何が起こったかを少しは把握できていた。
力が抜けたのも、魔力が無くなっていくのも、闇属性によるもの。その原因である、今も光り続ける黒い線は、屋敷に刻まれた結界術式。つまり執事の予想通り、結界そのものが掌握されている証左に他ならない。
そして、何もしていないのに宝物庫の大扉が開き始めた。ゆっくりと音を立てて。隙間から、悍ましさを感じる魔力が漏れ出させながら。
——そして、そこに、ソレはいた。
現れたのは蒼の瞳が妖しく輝く、銀の髪の少女。黒の衣服が靡き、その隙間から露わとなる白磁の如き腕や足をより一層映えさせる。僅かな動きで周囲に漏れ出る紅黒い瘴気は、禍々しくもありながら彼女を美しく見せる。
——まさに、完成された美。そうとしか言えない邪悪な少女が、扉を向こうより現れた。
それを見て、執事は確信した。主の言葉はどこまでも正しく、そしてそれでもなお足りなかったのだと。例え教会に何を言われようと、あの人形は浄化を施すべきだったのだ。打てる手は全て打ったつもりでも、それでも届かない事を想定して動くべきだった。
——あの怪物は、この程度では滅びないという事を。
「...お帰りに、なったのですね、アリス様」
地に伏した執事の言葉に、少女——アリスは軽やかに踊りながらニコリと微笑んだ。
「——ええ、ただいま」