劫火の内で騎士は吼える——嚇怒——
——殿下に助けられたから、しばらくの月日が流れ。
......気づいたら私は騎士団の総長などという、とんでもない役職に就いていた。
自分でも、どうしてこうなったのかは、今でもよく分かっていなかった。私はただこの国の為、民の為、そして殿下の為に走り続けただけなのだから。
けれど、その役職に就く直前の事は、忘れることは無い。
先代総長より打診を受けた私は、その話を即断では受けられず、随分と迷っていた。既に騎士団の中でも重役には就いていたものの、総長の座に自身が相応しいとは、思えなかったから。
頭から湯気が出そうなほどに悩み続け、ふと気分転換に砦の屋上へと足を運んだ。
その日は少し風が強く、砦の上はもろにその影響を受けていた。けれど鍛えた体はその程度では揺らがず、手に持つ斧槍をふらつかせることも無い。
剣から斧槍に主武装を変更したのは、この数年前の話だった。その少し前から体格がさらに成長し、剣ではどうにもそれを十全に生かせないと感じるようになっていた。
なら他の武装ならどうかと色々と試し、最もしっくり来たのが斧槍だった。槍はあまり使ったことは無かったのだがやけに手になじみ、まるで昔から扱ってきたかのように感じた。剣とはリーチが大分違ったものの、その差にもすぐ慣れ、一年が経つ頃には、以前の自身よりもさらに強くなっていると、そう実感できた。
もう相棒と言えるほどに馴染んだ斧槍を手に、私は砦の北に視線を向ける。
そこに広がるのは麓を覆う森林と、その先に聳えるギラール山脈の山肌。
——そしてそこかしこに感じる、魔物の気配。
この地がいかに危険なのかを物語る光景に、思わずため息が零れる。それはここ数日、自身を苛む悩みによるもの。
——果たして、自身に役職は相応しいのか、と。
認めてもらえていることに、不満などあるはずもない。しかし、当時の私には、自信が無かった。この国の全ての騎士や兵士の上に立ち、彼らを指揮する役目に。
無論今も軍の一部の指揮は執っているため、その役割をこなしたことはある。けれどその最高指揮官となり、やっていけるとは、到底思えなかった。
「——全く、迷い過ぎだ、阿呆」
——そんな私の悩みを、涼やかな声がバッサリ切り捨てる。
振り返ると、いつの間にかそこに、殿下が立っていた。彼女が見ていたのは、北ではなく南。そこから、この国の営みが一望できた。
白亜の壁に覆われたこの都市は、一国家としてはあまりに小さい。けれどそこには、紡がれてきた営みがある。
始めは、ひとつの砦でしかなかった。そこに壁を築き、田畑を耕し、家を作り、人が暮らし、国となった。
民を護ろうと立ち上がった貴族がいた。その剣となり、忠誠を誓った騎士がいた。そんな彼らを支え、共に歩むと決めた民がいた。
そんな想いが結実してできたこの国の景色は、何よりも美しかった。
眼下の光景を見ながら、殿下は謳う。これこそがなによりも尊ぶべきもので、私達が剣を取る理由だと。
「どんな役職だろうと、やることは変わらない。民の為に、仲間の為に。彼らを護り、共に歩み続けるために、その剣を振るう。そうだろう、シグレ・ベルカ?」
そう快活に笑う殿下の姿に、私は初心を思い出した。責任の重圧に負け、二の足を踏んでいた自身を恥じた。
私が今感じている重圧、それは殿下が今まで背負い続けてきたものだ。この国の王族として、幼き頃からずっと。その背を支えると誓っておきながら、何を躊躇っていたのだ、私は。
自分を内心で叱責しながら私は殿下の近くに歩み寄り、その場に膝をつく。石突を床に突き、まっすぐに立てる。
「——当然でございます。我が君」
もう、私の決意は固まっていた。揺らぐことない、不変の意志が。
それを見て、殿下は少し朱が差した顔をほころばせる。軽やかな笑い声が、快晴の空に響いた。
......その後、のぞき見していた騎士団の重役達や陛下が私を散々揶揄ってきたのだったが。お前は殿下に弱すぎると、しばらくは酒の席のネタにされたものだ。
......仕方がないだろう、この頃には流石に、自覚はしていたのだから。
——精霊。
それは、世界の調律し、整える者。自然の一部であり、意思を持つ魔力であり、世界のあらゆる場所に存在するそれは、通常の存在では認識できない。
人族では僅か一種族のみ、精霊と意思を交わすことを可能とし、それ以外の者では姿を捉えることすら出来ない。
ヒダルフィウスの先祖はかつて、その種族から親愛の証として、とある鉱物を授かった。
——精霊の涙。実際に、精霊の流した涙という訳ではなく、そう呼称される鉱石の最大の特徴は、内部に微精霊を宿していることにある。
微精霊とは、精霊の中で最もか弱く、そして最も多い、いわば精霊の赤子。最も無垢な精霊であり、自我もほぼ芽生えていない状態だ。
精霊を宿す鉱物はいくつか種類が存在するが、中でも精霊の涙は最も加工がしやすく、しかし最も扱いが難しい。
精霊は本来、その精霊の居場所で性質が変化する。環境の違いなどに大きく影響され、一度性質が定まれば、簡単に変化することは無い。
しかし微精霊とは、その変化が起こる前の状態。それが宿る鉱物から作られた武具は、鍛造されてからの扱い方では、想定しない形やおかしな状態に変化し、その状態で固定してしまう可能性があるのだ。
そんなものをヒダルフィウス家が授かったのか、それは偏に信頼の証と言っていいだろう。
——彼らなら、精霊の涙から作られた武具を、正しく扱える、と。
そうして出来た武具こそ、宝剣ネルヴェゲン。八つの剣で一組を為す、——騎士国の象徴たる剣である。
黒騎士に、白刃の颶風が襲い掛かる。元々頑丈な上に、魔物化の影響でより硬度を増した鎧は、業物を使ってもそう簡単に傷はつけられやしない。
——しかし宝剣が相手では、話が変わる。
閃光が走ると共に、黒鎧に無数の傷が刻まれていく。むしろ魔物だったからこそ、この程度で済んでいるとも言える。これが生前の鎧のままでは、傷どころか中の肉ごと切り裂かれていただろうことは、想像に難くなかった。
『————ハッ!』
その剣閃を耐えながら、黒騎士は斧槍を振りかぶる。その刃に暴風を纏わせた一撃が、天から振り下ろされた。
轟音と共に、未だ周囲を覆っていた炎が吹き飛んでいく。砦の屋上に風の刃が無数に吹き荒れ、浅くない傷跡を刻む。まさに、小さな嵐を巻き起こしたかのような惨状。
——しかし、屍姫はほぼ無傷で、彼から少し離れた位置に立っていた。鎧の無くなった左腕には微かな裂傷を負っているものの、その傷も淡い光が包むと同時に、跡形もなく消え去った。
それを眼にした黒騎士が大きく溜息を吐く。知ってはいた、何度もその力に助けられてきた、けれどいざ敵に回すと、こうも厄介なものか、と。
『......流石、宝剣だな』
彼の視界の先で、屍姫が構えた二振りの剣が、煌めいた。
——ヒダルフィウスの宝剣・ネルヴェゲン。精霊の涙から鍛造され、歴代の当主やその後継者の手で民を護るために振るわれてきた、守護の剣。
八振りで一組となる剣は、鞘に納められている間は、そのうち一本のみが表に出ている。そして抜刀と同時に八本全ての使用が可能となり、しかも剣の一本一本が固有の能力を有している。
剣は召喚する本数が増えるごとに、その魔力消費も大きくなる。負荷が大きい上、八本を同時に召喚しても持て余す為、大抵は用途に応じて召喚する剣を交換しつつ、戦闘を行う。
宝剣は代々そのように使われており、最後の使い手である姫騎士も同様だった。
剣の能力は性質に差はあれど、そのどれもが有能。そして最も厄介なのは、八本の剣は大きさも形もそっくりであり、柄に刻まれた意匠以外で見分けが付かないことだ。
なのでどの剣が振るわれるかは、実際に剣を受けるまでその効果が分からない。まさに、選択肢の多い後出しじゃんけんを強いられている状態と言えるだろう。
姫騎士の最も近くで仕え続けてきた黒騎士であっても、戦闘中にそれを見分けるのは至難の技だった。
(......とはいえ、全ての剣を使っているわけでは無い、か)
それでも何とか宝剣に対応すべく、彼は戦闘を継続しながら、慎重に観察していく。
八本あるということは、当然その剣の能力も八種類存在する。しかし、この状況でその全ての力を使えるかと言われれば、そうでは無かった。
例えば先程から屍姫の治療を行っている、揺剣ヘレ。それに軍を率いる際に全体にバフを施せる、導剣ヴァリ。今の状況では、少なくともこの二振りは黒騎士を攻撃する際に使われることは無い。
逆にほぼ確実に使われているのは、黒騎士が反応出来ないほどに速力を引き上げられる、騎剣ロゼ。最初に吹き飛ばされた際には、全体的に身体能力を高める、猛剣ゲルも使用されていた。
鎧をすり抜けたのは、敵の護りを無効化して攻撃できる削剣オド。火柱の魔法を大幅に強化したのは、魔法や魔術の威力や発動速度を底上げできる詠剣ジノ。未だ使われていないと思われる二振りにしても、同格の効果を宿していることに違いは無い。
現状、攻撃時に使われているのは四本、ある程度その効果を絞ることは出来る。だが柄は剣を握る手で隠れており、白い刀身にも差は見られない。
そして仮に柄を確認できたとしても、宝剣のもう一つの特性が壁として立ちはだかる。
使い手は、宝剣を自在に交換できる。タイムラグはほぼ存在せず、交換するだけなら魔力消費もほとんど発生しない。それこそ敵との戦闘中、一合交えるごとに取り換えることも難しくない。
——つまり、たとえどの剣を使っているか見分けられたとしても、直前で変えられてしまえば見極めは意味をなさなくなる。
『......まったく、嫌になるな』
斧槍を構えながら、黒騎士は眼前の屍姫を見据える。
宝剣の能力を使用され始めてからというもの、彼は終始劣勢を強いられていた。
デスナイトとレヴァナント、共に魔物となり果てた身。身体能力だけで言えば、そこまで差があるわけでは無い。
防具の頑丈さであれば鎧ごと魔物となった黒騎士の方に軍配が上がる。屍姫の腕を一撃で断ち切れたことからも、その鎧の性能がかつてと変わりない可能性が高かった。
武術の腕前では黒騎士、反対に魔術では屍姫と、それぞれの腕前に差はあれど、総合的に見れば差がそこまであるわけでは無かった。
——しかし、こと武器の性能差が大きすぎた。片や業物ではあっても、特殊な力を宿してはいない斧槍。片や先祖代々伝わる、この世界でも希少な精霊の宿る宝剣。その武器の格差が、戦闘をほぼ一方的なものへと変貌させていた。
『......実に、腹立たしい』
......否、もう一つ。黒騎士の精神を苛む、大きな要因が存在した。
先程彼は、屍姫の剣に主君の意志は無いと、そう言った。確かにそれは間違っておらず、今の屍姫に、生前の意志は宿っていない。
——だが、屍姫が騎士姫であることに、変わりがないのも事実なのだ。
体も、振るう剣技も、......そして意志は無くともその屍体を動かす魂もまた。彼が相対する存在が、今なお敬愛する主君そのもの。
戦えば戦うほどに、彼は騎士姫を感じ取ってしまう。それが振るう斧槍を、僅かに鈍らせていた。
......たとえそれが僅かなものであっても、屍姫相手では、決して軽くは済まない。
それらの要因が相まって、黒騎士はだんだんと追い込まれてた。そして意志亡き屍姫もまた、攻め手を一切緩めることなく、骸王(操り手)の命令のままに、敵を排除せんと刃を走らせる。
......もし今、宝剣を振るうのが騎士姫であったのなら、きっと一度刃を退いていたに違いない。
それは決して、黒騎士への感情や想いから来るものでなく————。
『————————骸、王』
————敵から湧き上がる殺意に、本能が警鐘を鳴らすからに他ならない。
蹂躙され、滅ぼされた故郷。
屍に変えられ、怨敵の良いように使役され続ける兵や民。
......そして、敬愛する、誰よりも大事な人の、無残な姿。
——黒騎士の箍を外すには、あまりに十分過ぎた。
彼の奥底で、憎悪が膨れ上がる。感情が怨念となり、死者の身体に迸る。
死霊の根幹は、その屍体に宿る負の感情。怨念が湧き上がれば上がるほど、魔物の身はよりその影響を受け、呼応する。
——黒が、白を捉える。
甲高い金属音と共に、白刃の怒涛が止む。黒騎士の鈍く光る斧槍が、宝剣の刃を完璧に受け止めていた。
屍姫はそれを気にも止めず、再び刃を振るう。既にその手に握られる剣は切り替わり、護りをすり抜ける削剣が胴部へと迫る。
......だが、その刃は届かない。斧槍の柄が、剣を握る手を弾き飛ばす。
また剣が切り替わる。黒騎士の周囲に火の玉が浮かび上がり、詠剣がそれら全てをより凶悪なものへと変貌させる。
......しかし、その魔法は当たらない。暴風が滞空していた火球を吹き飛ばし、魔法は砦の上空で爆発を引き起こす。
三度剣が入れ替わる。騎剣と猛剣により二重強化された、屍姫の姿が掻き消える。
......それでも、刃は空を斬る。斧槍の一閃が屍姫を捉え、剣の間合いに立ち入れない。
突然の黒騎士の変化に、しかし屍姫は反応を示さない。命令を忠実にこなすために、手を替え品を替え、ただひたすらに攻め続けた。
——だからこそ、屍姫は黒騎士に届かない。
——黒騎士は知っている。
削剣が護りを無効化するのは、あくまでその刀身だけであるということを。
詠剣での強化を行う際は、僅かに魔法が停止することを。
騎剣と猛剣の二重強化は、動きが速くなりすぎて逆に単調な攻撃しか出来ない事を。
導剣も揺剣も、残りも二振りも。
——何年も騎士姫のそばで、最も長く仕え続けてきた黒騎士は、その全てをよく知っている。
宝剣の能力に限った話ではない。騎士姫の剣技もまた、彼の記憶と体に、深く刻まれている。幾度も並んで戦い、また幾重にも剣を交えた、彼が最も敬愛する主君の事なのだから。
振るわれる剣を見極める必要もない。その剣技が騎士姫のものならば、次に何が振るわれるかは、彼には大体予測がつく。
それでも先程まで後手に回っていたのは、それらを差し引いてもなお、宝剣の性能が黒騎士の全力を大きく上回っていたからに他ならない。事実、生前に彼が騎士姫と剣を交えた際、宝剣と使われても勝利したことは一度として無く、何とか引き分けに持ち込むことが精いっぱいであった。
——だが、その前提はもう、通じない。
死霊にとって、怨念とは成り立つために必要な根幹であり、そして先に進むための鍵でもある。負の感情の激しい昂りは、死者の力を引き上げる。内に宿す想いが重く、深く、濃いほど、魔物の身体はそれに共鳴し、呼応する。
祖国に帰還してから、否——全てを失った日から一瞬たりとも、消えることも弱まることもなく、黒騎士の内で滾り続けてきた、怨念の劫火。それが今火柱を上げ、かつてないほどに燃え上がっていた。
——宝剣との間の高き壁すら、ぶち破りかねないほどに。
『————必ず、殺す』
黒騎士から放たれる、怨嗟の声。だがそれは、相対する屍姫に向けられたものでは無い。
彼の憎むはただ一体。——その遥か先、山脈に隠れ住む悪辣なる魔物だけ。
......その様子を、屍姫は静かに見つめていた。
永き時を経て再会した部下を前にしても、骸王の傀儡に変化は無い。顔からは感情が完全に削ぎ落され、振るう剣に意志が戻ることも無い。
......ただ、ほんの刹那。その眼に、微かな光が奔る。
——握られた宝剣だけが、その光に気づいていた。